以前買った教養文庫版『村野四郎詩集』を時々読んでいる。酒を飲みながら読むこともある。僕の場合、酒を飲んで読める本は限られている。小説や評論はダメだ。頭に入らない。散文の文脈を了解しつつ味わう能力がアルコールで鈍るからである。
 飲みながら読めるのは漫画か詩集である。またはくだけたエッセイ。詩は短いから文脈をとらえて味わうのに苦労しない。そんなわけで『村野四郎詩集』は僕の部屋の椅子の傍らにいつも置いてある。
 この詩集は村野四郎の半生の主だった詩のダイジェストである。編者は小海永二。これが刊行された時、村野四郎はまだ生きていたようだ。収められた詩は各出典の詩集ごとに区切られている。処女詩集『罠』から『体操詩集』『抒情飛行』『珊瑚の鞭』『故園の菫』までが日本の敗戦前までに出版された詩集。『予感』から『実在の岸辺』『抽象の域』『亡羊記』『蒼白な紀行』とそれ以後が敗戦後に出た詩集となっている。
 いつもこの本をひもとくたびに僕が気になるのは太平洋戦争中に出た詩集で、特に『抒情飛行』『珊瑚の鞭』あたりに収録されていた抒情詩が気になる。気になるというのはそれらの抒情詩が村野四郎のほかの時期の作品よりもおもしろいからだ。いわゆるノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)にのっとって書いた『体操詩集』よりおもしろいし、一般に村野四郎の代表作とされている『亡羊記』など戦後の詩よりおもしろい。
 なにがどうおもしろいのかを考えるのがこの小文の狙いである。

 村野四郎という詩人は若い頃から晩年まで、作風というか文体が変わっていない。つまり基本的な詩の世界観は変化しない。ところが時期によって個々の詩の傾向が変わる。これは小変化であり、豹変と呼ぶには少々足りない事態である。
 敗戦後に書かれた次のような詩がある。


    黒い歌

 目からも 耳からも
 暗黒があふれて
 夜に溶解した肉体が
 口から ながれだしている
 あれはいったい 何という人間だ
 あの黒い歌

 ここに夜明けはくることがない
 地球のかげの
 枝もない 家もない 犬もない
 真空の空間
 そこで 死ねない心臓が
 睡れない心臓が
 うたっている うたっている
 世界の友よ
 あの歌をおきき
 この平和の 黒い歌


 この詩が発表されたのは昭和二十五年だが、書かれたのは敗戦直後のようだ。ここに表象された詩人の感情はまったくよくわかる。とりわけ、戦時下に書かれた『故園の菫』の戦死した弟への挽歌を読んだ上で考えると、敗戦後に村野四郎がこんな詩を書いたことは理解できる。
 つまり詩人は戦争中に愛国詩を書き、弟の戦死を誇らしく思ったので、敗戦後の日本人がいきなり米軍に迎合して戦争を悪しきものと反省し始めたことに納得できないのだ。弟は、戦争の犠牲になった国民はなんのために死んだのかという思いが「夜明けはくることがない」「この平和の 黒い歌」になる。グロテスクなイメージだが、表象されたものと表現の関係は明快といってよい。
 時代社会に反応した感情を詠うこうした詩に比して、戦争中ないし日米戦争前夜の時期に書かれた次のような詩が意味するものはなんだろう。


    故園の春

 私はふかぶかと
 故園の春の中に沈む
 父や祖父たちが朽ちはてた
 くろい土の上に
 きょう うつくしく
 梅の花散り
 彼らのひろい胸郭(むね)の匂や
 ふるい野良衣の匂が
 私の肉体(からだ)のまわりにたゞよう
 
 私は千年もまえから生きていた
 そして なお
 千年の後に生きるだろう
 愛というにはあまりに深く
 もはや痛みもなく
 憂いもなく
 漠々たる故園の空の中から
 新しい雲雀のこえが
 秒刻(せこんど)のように墜ちてくる


 故園、と指された場所が詩人の郷里であることはハッキリしている。したがってこの詩をノスタルジーの所産と受けとることは可能だが、必ずしも郷愁だけを直截に詠ったものではないと思う。「私は千年もまえから生きていた/そして なお/千年の後に生きるだろう」という、超自然的な発言の力強い肯定性は郷愁から出てきたものだろうか。「秒刻(せこんど)のように墜ちてくる」「新しい雲雀のこえ」はこの詩の語り手にひとつの決心を促しているように見える。
 そしてその決心の意味はわからない。日米戦争へ向かってゆく時代に書かれた詩だから、やがてきたる戦争に十全の心構えで臨むぞとの決心と解するのは穿ちすぎだろう。郷愁が拡大されて祖先を崇敬する思いが膨れ上がったのかといったら、そんなことでもない気がする。ただこの詩は爽やかで清々しい。ほとんど詩人の個人的な心情を超えている。時代社会との関連も定かでないから、社会とは無関係か関連が稀薄だといって差し支えないはずである。
 この「故園の春」が収められた詩集『抒情飛行』そしてそれにつづく詩集『珊瑚の鞭』が村野四郎の抒情詩のなかで殊に魅力的な詩だと僕は考える。敗戦後に刊行された詩集『予感』からは苦しい悲愴感のうちに田園が表象されるようになり、それは時代社会と無関係ではありえない。戦争前夜と戦争中のつかの間の時期に村野四郎は純粋な抒情詩を書いたのだ。つまり詩だけで自立した世界をつくりえたと思う。
 戦後の代表作『亡羊記』を見てみよう。


    死

 追われどおしに 追われて来た
 蹄も割れ 眼球も渇き
 空と森が遠くに後退しはじめた

 わたしの屍体が
 さみしい茨のなかにころがっていると
 やがて 誰かが近づいてきた
 愛と恐怖の面もちで
 血に濡れている獲物を
 そっと見とどけにきた猟人のように
  魂がわたしを探しに来た


 完成された詩である。狩人に追われて殺される獲物に自身をなぞらえた詩はこの詩集にほかにもある。「蹄も割れ 眼球も渇き/空と森が遠くに後退しはじめた」という描写はうまいなと思う。これなど『体操詩集』の昔とった杵柄だろう。みごとだなとは思うが、こうした詩を読んでも僕の心はソワソワしない。
『亡羊記』は安定した感情の世界である。詩の表現として申し分ない完成度に達した詩集だ。しかし戦時下に発表された詩群に比べ、この詩集の詩は言葉がどこからきたのか、なにに由来するのかが明らかだ。その明澄さにつらぬかれることを詩人もわかっていて引き受けている。
 僕が村野四郎の詩でおもしろいと思うのは、むしろ次のような表現である。


    室内

 卓子から垂れるレースのように
 神よ あなたの言葉は
 私を蔽うて私の世界からさがる
 私の思想は
 あなたの下にかくれてつつましく
 私の上で
 あなたの花甕はさきみだれる
 私はあなたの為の一つの台だ

 私は日々に私に似つかわしい
 あなたと
 あなたから散りこぼれるものを支えながら


 上と下、また「垂れる」「散りこぼれる」という動詞が萩原朔太郎の空間システムを想わせないでもないが、なんの神かわからないがとにかく「神」と呼ばれているものと語り手の牽引が美しい。
 村野四郎は戦後、謎めいた抒情詩を書かなくなった。それはどうしてだろうと思うが、戦時下のつかの間に残した独特な抒情詩に僕は惹かれている。






 僕らはベッドで抱き合っていた。運動会がおじゃんになってだれも学校にこないことで、却って安心感が湧いた。メイプルは服を脱いだ。僕も服を脱いだ。僕らは裸になった。シーツの上に寝そべったメイプルの胸を触った。手のひらで揉んだ。固い感触だった。手を小刻みにうごかしてみるとメイプルは感じて声を出した。
「気持ちいい?」
 メイプルは「うん」と答えた。僕はメイプルの横に寝そべって身体をくっつけた。右手でメイプルの胸をいじっているが左手はメイプルのおでこにかかった前髪をかき上げて、頭を抱いていた。僕はメイプルを大事にしようと思った。一生大事にして一生一緒にいようと思った。僕はメイプルのほっぺたやおでこをキスしまくった。
 僕はメイプルの唇をひらかすと舌を入れてキスした。背中に腕を回した。メイプルの腋の下から手首を出すと、僕はメイプルの心臓側の胸をそっと掴んで中心にある固くなった突起をいじった。メイプルの両脚をひらかせた。股間を触ると、濡れてた。穴から粘液がいっぱい出てるんだ。
 僕は胸の突起をいじくりながらメイプルの股間を触った。粘液に指を濡らして股間にある豆粒大の部位をつまんだ。親指と人差し指の指先で豆粒をヌルヌルいじくると、メイプルは声を出した。人差し指の腹を豆粒に押し当てた。そのままブルブルこすった。メイプルはこれ以上ないくらい高い声を出して、何秒かすると、下半身をビクビク震わして逝った。
 僕は逝ったメイプルにまたキスした。それからまた豆粒に指を当ててこすった。今度もまたメイプルはあっという間に逝った。満足させてやろうと思い、僕はたてつづけに同じ動作を繰り返した。メイプルは何度も逝った。逝くたびに声は高くなり、逝ったあとも喘いでいた。
 それから僕らは器官同士をくっついてつながった。
「メイプル」僕はゆっくり器官をうごかしてきいた。「メイプルのなかに出してもいい?」
「赤ちゃんできちゃう」メイプルが言った。
「できたら産んでね」僕が言った。
 メイプルは喘ぎながら微笑んで僕の首の後ろに両手を回した。「好き。カイル」とメイプルが言った。僕らはキスした。
「僕がほしい?」
 メイプルにきくと、メイプルはうなずいた。
「僕もメイプルがほしい」僕はメイプルのなかで器官を急速にうごかした。「僕はメイプルのものになってあげる」
 僕らはつながっている最中、保健室の窓のそとでさっきの小鳥がこちらをじっと眺めていることに気づかなかった。
 
 夢中の何時間かが経ち、僕らはベッドでグッタリと寝ていた。目が覚めると起き上がり、弁当のつもりでもってきたサンドイッチをメイプルと分け合って食べた。お腹が空いてたから美味しかった。
 食事がすんでからも僕らは抱き合っていた。
「カイル」メイプルがきいた。「まだ運動会のこと、ガッカリしてる?」
「うん」僕は答えた。「できなかったのは残念だよ。残念でならないよ。でも、そのかわりにメイプルがヤらせてくれたから、幸せだよ」
「よかった」メイプルが笑った。「わたし、すごく気持ちよかった。カイルと一緒にいられて幸せ」
「本当に、僕らは僕らさえいれば幸せだねえ」と僕は言った。「この町にいるのは僕らだけでいいよ。みんないなくなってしまえばいいんだ。頑張らない人たちなんか」
 その時、保健室の窓のそとで羽ばたく音がした。小鳥の羽音だった。木の枝から飛び立ったらしい。
 僕とメイプルは学校で別れて家路についた。運動会がなくなったのは悔しかったが、今日のことに満足していた。僕は明日からメイプルと生きてゆくんだ。二人でひとつになって生きるんだ。
 道端の木から声が聞こえた。
「女とひとつになって生きたいか?」
 どうもそう聞こえた。まちがいない。木がいま僕が心のなかに思ったことを読みとって喋ったのか。そう思って不思議になった。すると木の枝に小鳥がとまって僕のほうを見た。
 真っ黒い円らな目の鳥だった。
「いま言ったのは小鳥かい?」
 僕が小鳥にきくと、小鳥はくちばしをひらいた。
「町のみんながいなくなればいいのか?」
 小鳥はそう言った。あらためてきかれると返答に困った。僕とメイプルだけ残して頑張らない人たちがいなくなればいいと言ったけれど、本当になるわけがない。
「……僕は頑張らないやつらが嫌いなだけだ」
 僕はそう答えた。すると小鳥はうなずいた。確かにそう見えた。小鳥は枝から飛び上がり、去って行った。
 買い物をして帰ろうと思って市場へ寄った。市場でピロシキを買ったおじさんが紙袋を担いで歩いてた。僕はおじさんの後ろからコッソリ近づいて紙袋のなかのピロシキをひとつつまんで食べた。振り向いたおじさんに「こいつめっ」と怒られた。僕は走って逃げた。
 肉屋に寄ると軒先に骨つき肉とソーセージがぶら下がっているのに、肉屋さんはいなかった。
「あれ? どうしたんだろ」僕は声を出した。「だれかいませんかあ」
「どうしたの?」
 隣の魚屋が言った。肉屋さんがいないと話すと「変だね。ついさっきはいたよ」と言われた。
 肉屋さんがいないから僕はその場を離れた。市場のなかを歩いていると、アーケードのいちばん奥の突き当たりに大きな鳥がいた。そう、鳥だ。人間の背よりも大きくてとてつもないくちばしをした鳥の化け物だ。でもそいつは首から下が人の身体だった。
 僕は立ち止まった。鳥は巨大なくちばしをあけて人間を飲み込んでいた。モグモグやってゴクリと飲み込む。飲み込まれた人は鳥の体内を通ってゆく。妊婦のお腹を胎児の足が蹴る具合に鳥の人体を飲み込まれた人の身体のかたちが通過するのが見える。鳥のお腹がグニャグニャうごめく。
 鳥のお尻の下に地面があった。地面にはマンホールそっくりの穴があいてた。穴のなかは真っ暗で底知れない。鳥が飲み込んだ人間が鳥のお尻の穴から出てきた。長いこと鳥のなかにとどまったりせず、すぐに排泄してしまう。お尻の穴から出た人間はもとの姿だが足胞のような風船状に膨らんだ膜に包まれている。人間は風船ごと穴に落ちた。
 穴に落ちる時の人間の悲鳴が聞こえる気がした。でも声を耳にしていない。
 鳥は傍らの人間のストックを大きな手で鷲掴むとたちまちひらいたくちばしのなかに飲み込んでいった。僕はいま飲み込まれたのは肉屋さんだった気がした。飲み込まれた人はまた鳥の身体をグニャグニャ通ってお尻の穴から出てきた。風船の膜に包まれ、なすすべもなく穴に落ちた。
 人間を飲み込んでいるあいだ、鳥は喜びもしていないし、美味しそうにも見えなかった。僕はこの鳥の化け物がさっき言葉を喋った小鳥じゃないかと思えてきた。
 どうやってさらってきたのか、鳥のそばに何人も人間が集められていた。鳥の手がグイと鷲掴んで食べられる時も全員無抵抗だった。たぶん頑張りたくない人たちだからかもしれない。頑張らない人は鳥のくちばしに飲み込まれて、嚥下され、鳥の体内を通るとお尻の穴から出て地面の穴へ落ちてゆく。
 鳥が目にもとまらぬ早わざで掴んで飲み込んだ人が、お尻から風船に包まれて出てきて、庭師のおじさんだったと気づいた。また小さい人が鳥にひと息に飲まれて、お尻から出てくる時によくよく見れば昨日帽子のゴムひもを口にくわえてた坊やだとわかった。坊やは穴の深淵に落ちた。
 それから鳥が最後のストックの人間を鷲掴みにし、くちばしから飲み込む時、飲み込まれる人が校長先生だと僕は気づいた。校長先生は頭から鳥に飲まれてゆき、ズボンをはいたままスッポリくちばしのなかに収まった。間もなく鳥のお尻の穴がガバッと拡がって、風船の膜に包まれた校長先生が頭から穴に落ちていった。
 ストックがなくなると鳥は町の人たちを捕まえに出かけて行った。
 市場を出て道を歩いていると、道端の木が増えている気がした。確かめたわけではないがどうも見たことのない木々が生えている。近寄ってみた。低いツバキの木が生えていた。この木はどうもさっき鳥に食われて穴に落ちていった坊やのような感じがした。穴から落ちて地底で分解され、木になって生えたらしい。
 隣にサルスベリが生えていた。肌はすべすべしているが花は咲いていない。このサルスベリは校長先生だと思った。
 町の人たちがどんどん鳥に食われて木になっていく。僕はメイプルに会いたかった。メイプルが鳥に食われていないか、心配だった。僕は家に帰らず坂の上のメイプルの家へ急いだ。
 メイプルの家につくと、僕は呼んだ。
「メイプル」もう一度呼んだ。「メ、イ、プ、ル」
 窓があき、メイプルが顔を出した。僕はホッとした。
「よかった。メイプル、無事なんだね」
 僕はメイプルを抱きしめた。
「もちろん無事よ」メイプルが言った。「カイル、どうしたの?」
 僕は巨大な鳥の化け物が次から次へと町の人たちを飲み込んで、その人たちが新しく木に生まれ変わっていることを話した。
「まあ、なんてこと」メイプルはおどろいて口元を手で覆った。「その恐ろしい鳥、なぜ人を食べるのかしら?」
 僕はうなだれた。町がこうなったのは僕のせいかもしれないんだ。僕が頑張らないみんなを憎んで、いなくなればいいと思ったせいかもしれないんだ。僕は小鳥と喋ったことをメイプルに打ち明けた。
「じゃあ、その小鳥が巨大化して人を食べるようになったのね」
 メイプルは言った。
「このままだと町じゅうの人たちが一人残らずあいつに食べられてしまう」
 僕が懸念を口にすると、メイプルはニッコリ微笑した。
「いいじゃないの。カイルとわたしが生き残れれば」メイプルは言った。「ねえ、町の人ほとんど食べられたんでしょう? なら、だれにも見られないから、そこでヤらない?」
 メイプルは窓から身を乗り出して道端の芝生が生えたあたりを指さした。そこらは柔らかいクローバーも生えていて昼寝するのにうってつけだ。
「……うん。いいよ」
 メイプルは部屋のなかで裸になると、窓から出てきた。僕は裸のメイプルを抱っこして草の生えた道端に寝かした。僕も服を脱いで裸になった。メイプルにかがみ込むと僕の器官はもう血を吸い込んでパンパンに膨らんでいた。
 柔らかい草をベッドにして僕らは器官をくっつけ合った。僕のものがメイプルのなかに滑り込んだ。たまらなくこすった。
 ヤッている僕らの傍らにそいつが立ったのに気づいたのはメイプルが何度目か逝ったあとだった。
 声がした。
「二人でひとつになりたいんだろ」
 振り向くと巨大な鳥が立っていた。視界が急にぼやけた。僕とメイプルの身体が干からびてゆくのが感じられた。皮膚はかさかさになり、固くなってゆく。
 僕とメイプルは地面に根を張った。僕ら二人はひとつの結び合った低い木になっていた。土から養分を吸い込み、生きてゆくんだ。
 そして地面すれすれのところ、メイプルの姿のなごりの粘膜を帯びた穴のなかに僕のなごりの出っぱった太い節が入り込んでつながったままになっている。節は穴のなかで音を立ててうごめいている。穴のふちは湿り気があり、ヌラヌラしている。






   いつもだらだら
   いつかばくはつ
          
 僕の名はカイル。この田舎町きっての好青年だ。その証拠に僕の歌声はのびやかによく響く。道を歩きながら、僕は「さんた、るちあ」と歌う。「おお、それ見よ」と歌うこともある。「あもーれ、あもーれ」と歌うこともある。僕が歌うと道端の木々と茂みも唱和する。僕が通りかかると枝や葉っぱがゆさゆさ揺れる。
 新緑の季節だった。はじめて葉が生えた木々が道に沿って立ち並ぶ。こんな木、見たことない。僕は気になって触ってみた。まだ肌の柔らかい木だ。コブシかタラノキだろう。
「あもーれ、あもーれ……」
 茂みの向こうから低い声の気が乗らない歌が聞こえてきた。僕がヒョイと茂みを覗き込むと、庭師のおじさんが低木の剪定をしながら歌を口ずさんでいた。僕はおじさんに話しかけた。
「おじさん。そんな調子の出ない歌なんか歌わないでよ?」
 すると庭師のおじさんは帽子のつばをもち上げて僕を見た。
「だれか歌ってるなと思ったら、カイルだったのか」
「そうだよ」僕は言った。「おじさん、歌うならもっと元気よく歌ってよ」
 僕は自分でお手本を示した。
「あもーれ、あもーれ」
 すると庭師のおじさんはハサミをもったまま「あもーれ、あもーれ……」と歌ったがその調子はさっぱり冴えなかった。
「またその調子? 冴えないねえ」
「だって、しょうがないよ」おじさんは言った。「おいら頑張りたくないんだもの」
 庭師のおじさんの返答に僕はくさくさした気分になった。どうしてこの町の人たちは頑張らないんだろう。ちょっとだけ頑張ろうとか、何分いや何秒かだけでも頑張るとか、それすら思わないのだろうか。
「そういや、明日は運動会だったね」
 庭師のおじさんが言った。言われて思い出した。そうだ、明日は学校で運動会があるんだ。校長先生や来賓の人たちが白いテントの下の椅子に座るんだ。僕らは始まる前に挨拶するだろう。挨拶といっても「ちわース」とか「ちィース」とかじゃない。「こんち、またまた」とかでもない。僕は演壇の上に乗り、声高らかに話すんだ。
「ご来賓のみなさま。今日は運動会にいらっしゃいましてまことにありがとうございます」
 パチパチパチ。拍手と歓声が湧く。この瞬間僕のなかの血は熱く燃えるんだ。おお、燃える燃える燃え上がる。燃え上がれ、燃え上がれ、カイル。
「めんどくさいことだなあ」庭師のおじさんは突然言った。「おいら、運動なんて面倒だから玉入れしか出ないよ」
 僕はおじさんのめんどくさがりに、なんとなくムカムカしてきた。
「おじさん、年に一度の運動会ぐらい頑張ってよ」
「やだなあ」おじさんは答えた。「頑張りたくないなあ」
 僕は呆れてその場を去った。
 僕はどこへ向かっていたのだろう。おお、そうだ、僕はメイプルの家へ行くところだったんだ。メイプルは坂の上に住んでいる女の子だ。教室でいつも僕の隣の席だ。僕とメイプルが隣同士になっているのは、つまり僕らがそうしたいからなんだ。僕らはなるべくそばにいたい。くっつきたい。身体と身体をくっつけたい。
 メイプルの家へ行くには坂道をのぼってゆくんだ。この坂道は大してきつくない。大してきつくないから坂の勾配と同じ角度に背筋を伸ばしてのぼってゆける。
 僕はメイプルの家の前につくとメイプルを呼んだ。
「メイプル」しばらくしてもう一度呼んだ。「メ、イ、プ、ル」
 すると一階の窓があいた。メイプルが顔を現した。
「カイル。おはよう」メイプルが言った。「いい天気ね」
「本当にいい天気だね」僕は言った。それから歌った。「おお、それ見よ」
「おお、それ見よ」
 メイプルも歌った。元気いっぱいの歌声だった。僕は嬉しくなった。
「ねえメイプル。明日は運動会だね」僕は言った。「楽しみだねえ。僕はきっとうまく選手宣誓するよ」
 僕の言葉を聞くとメイプルはニッコリ微笑んだ。
「カイルはきっとすばらしく選手宣誓すると思うわ」
 僕はメイプルの言葉を聞いてブルッと身体を震わした。武者震いだ。がぜん選手宣誓したくなった。宣誓したくてしたくてたまらなくなってきた。
「宣誓っ」僕は思わず片手を上げて言った。「われわれはスポーツマンシップにのっとり……」
「カイル」メイプルは窓につかまって首を振った。「いま宣誓しなくていいわ。明日頑張ってくれたほうがいいわ」
 メイプルに言われて僕はてへっと舌を出した。僕の悪い癖だ。すぐその気になって早まってしまう。
「わかった。僕は明日まで選手宣誓しないよ」僕は言った。「明日の運動会はきっと活躍してみせるよ。僕は徒競走で一着をとるよ」
「カイルはきっと徒競走で一着になるわ」とメイプル。
「あと、綱引きでも力強く引っぱるよ」
「カイルがいれば百人力よ」
「玉入れでもいっぱい玉を投げ入れる」
「カイルはだれよりも玉をたくさん入れると思う」
「棒倒しでもかなり棒を倒すぞ」
「カイルはきっと棒を倒しまくるわ」
 僕はすっかり嬉しくなった。窓辺に近寄り、身を乗り出したメイプルを抱きしめた。そしてほっぺたにキスした。メイプルは「カイル。好きよ」と言ってくれた。僕もメイプルに「好きだよ」と言った。
 メイプルとはそれで別れた。
 道を歩いていると小学生の坊やがトボトボ歩いていた。運動用の紅白帽をかぶっている。明日の運動会に備えてだな。それがわかって嬉しくなった。ところがよく見ると坊やの帽子は皺だらけで、あごでとめるゴムのひもがだらんと垂れ下がっている。坊やは歩きながら垂れ下がったゴムひもを口にくわえ出した。
 坊やに頑張らない気配を感じて、僕は歌を歌ってみた。
「おお、それ見よ」
 すると坊やはうつむいたまま歌った。
「ボラれ、おお、お金ボラーれ」
 僕は立ち止まって坊やを呼び止めた。
「坊や。明日の運動会はなんの種目に出るのかい?」
 坊やは振り返って僕を見た。それからつまらなそうに首を振った。
「ぼく、運動会出ないよ」坊やは答えた。「出たくないんだ」
「運動会に出たくない?」僕はおどろいた。「なぜだい?」
「疲れるし、かったるいからさ」と坊や。「ぼく、頑張りたくないんだ」
 僕は帽子のゴムひもを口のなかでクチャクチャ噛んでいるこの坊やの考えを正したくなった。年上らしく説教した。
「坊や。そういう後ろ向きな考え方ではいけないよ」僕は言った。「前向きにならなくちゃ。歩く時は胸を張って前を向いて歩くんだ。後ろへ下がっちゃいけない」
「後ろ向きって、こういうの?」
 坊やは言うと、道でムーンウォークしてみせた。器用な坊やだ。
「頑張らないように生きようなんて思ったらいけないってことさ」僕は言った。「坊や、いいかい? 明日の運動会はきっと出るんだよ。坊やは、そう、棒倒しが向いているよ」
 坊やは僕の言葉を聞き流して歩き出した。歩きながら「ボラれ、お金ボラーれ」と歌った。

 翌朝。僕は起きた。力がみなぎっていた。僕は運動会で必ずや好成績をおさめるだろう。そして町の英雄になるだろう。
 僕は朝食にトーストとベーコンエッグを食べると昼食のサンドイッチをカゴに入れて出かけた。道端の草木がこちらを向いてお辞儀していた。僕が通ると沿道で敬礼する兵隊よろしく、木々の枝葉がサッと僕をよけた。学校につくと爽やかな風がグラウンドを吹き渡っていた。
 僕は町のみんながやってくるのをいまかいまかと待っていた。ところがいつになっても一人もこなかった。開会式の数分前になってメイプルがやってきた。僕たちは挨拶した。
「だれもこない」僕は言った。「みんな遅刻してくるのかな? 開会式の時刻をまちがえてるのかな?」
「さあ、わからないわ」メイプルは不思議そうに言った。「でも校長先生ならさっき校舎内にいたよ?」
 だれも集まらないのに我慢できず、ひとまず校舎にいる校長先生にきいてみることにした。僕が校舎内に入ると校長先生は廊下にいた。壁に片手をもたれて立っていた。木にもたれている人、というより廊下に生えた木のようだ。僕がグラウンドにだれも集まらないことを話すと、
「うん、そりゃそうだろう」校長先生は答えた。「運動会なんて、うん、どうかい。だれもやりたくないだろう。どうも気が乗らないだろう」
 校長先生のセリフを聞いて僕は愕然としてしまった。
「校長先生。どうしてみんな運動会をやりたくないんですか?」
「うん、そりゃ決まってる。恒例行事だから毎年やらされるだけで、運動会をまだかまだかと待ち望んでいるやつなんかこの町に一人もいない。あ、うん、きみを除いてはな」校長先生はカカシのように廊下で両腕を広げてバランスをとりながら「カイル。きみはなにか誤解してるようだな。この町の人々はみんな頑張らない人々なのだ。頑張らないでいたいのだ。このわしを含めてな」
 校長先生は窓からグラウンドを眺めた。依然としてだれもきていなかった。それを見て校長先生は言った。
「うん、やっぱり、思った通りだれもこない。運動会は中止だな」
「そんな……」
「カイル。運動がしたけりゃ、うん、きみ一人でやればいい。みんなを巻き込まないでくれよ。迷惑だからな」
「……」
 校長先生は帰って行った。僕は呆然としていた。グラウンドに出ると殺風景な広がりのなかにメイプルだけがいた。白いテントの下の来賓席に腰かけて僕を見ていた。僕は演壇の上にのぼってあぐらをかいた。
 しばらく待っていたが、だれも現れなかった。みんなで示し合わせて学校に近寄らないようにしてるようだった。演壇に座りながら、僕は悔し涙が湧いてきた。一度泣いてしまうと涙は止まらなかった。あとからあとからモリモリ涙は湧いた。僕は男のくせにみっともなく声を上げて泣いた。
 いつの間にかメイプルが演壇の僕の背後にきていた。
「カイル」メイプルは僕の肩に手をのせて言った。「もう、運動会はあきらめましょう。仕方ないわ。わたしたちだけで過ごしましょう」
 僕が振り向くと、メイプルは優しく微笑んだ。メイプルは僕の手をとると、立ち上がらせた。
「どうせだれもこないなら」メイプルは僕の耳に口を近づけて「校舎の保健室で一緒にいようよ」
「え……?」
 僕が当惑すると、メイプルは言った。「保健室にはベッドがあるし、真新しいシーツが敷いてあるわ」その声には蜜のような響きがあった。「二人きりで学校を貸切にできるんだから、楽しまなくちゃ」
 僕はそれを聞いて興奮してきた。鼓動が早鐘を打ち、のどがカラカラに渇いてきた。運動会のことが頭から吹っ飛び、僕の目の前にいるかわいい少女のことでいっぱいになってしまった。
「うん。メイプル、一緒に保健室へ行こう。今日一日そこで二人きりで過ごそう」
 僕らは喜び勇んで校舎内の保健室へ移動した。校舎内はだれもいなかった。保健室に入り、念のため鍵をかけた。白いベッドにメイプルと一緒に座ると、メイプルは僕の首に抱きついてきた。いい匂いがした。
 保健室の窓ガラスのそとにプラタナスの木があり、その枝に一羽の小鳥だけがとまって僕たちを見ていた。



後編へ続く。