『掃除機』 | アントニオ(教授)のブログ

アントニオ(教授)のブログ

ライブや芝居や映画などのレビューを書いていきます。かなり偏ってますが(笑)

原作もあらすじも出演者も何も知らず、ただただ「演出が本谷有希子だから久し振りに」とチケットを取った公演。

8050問題、正直余り興味は無かったし、ラップもどちらかというと嫌いな部類に入る音楽だったから、そのような内容で演出と知ったときはどうしようと思ったのですが、裏切られました。観に行って良かったです。

登場人物のモノローグを中心として舞台は進んでいきます。引きこもりの娘、息子、そしてその父親。とても閉塞した空間の描写とその空間での各人の独白が続く前半は正直途中で耐えられなくなりそうでしたが、空気を一転させたのは息子の友人の登場。

友人役はラッパーの環ROYさんです。音楽含め、この方の存在抜きにこの公演は成り立たなかったと思います。恐らくラッパーの存在、その方向性の登場人物の参加については本谷有希子の演出がなせるところ、だと思います(確認したく、原作本購入しました)

8050問題に限らず、この現代社会における鬱積した、そして鬱屈した、閉塞感満載の空間の対称のメタファーとしてのラップ。

ただしかし、最初はそのように感じていた長男の友人である環ROYさんの独白ですが、途中から変わってきます(ここの独白、とにかく素晴らしかった。一気に舞台に集中したし、ラップ好きでは無かったけど、他でも観てみたいと思いました)。

「糞みたいな職場に耐えられなくなり「熱帯雨林隊長(業務上の命令が飛んでくる端末)」をたたき壊した」

「何故糞みたいな職場であることに気づくのに4日も掛かったのか?」

「いや実は初日から気が付いていたのではないか?」

「だったら何故決断まで4日も掛かったのか?」

「いやいや、本当は業務を始める前から「糞みたいな職場」と知っていたのではないか?」

「そうとしたら、何故「糞みたいな職場」と知っていて働き始めたのか?」

「世の中、すべて糞みたいだからじゃないの?」

「世の中全てがそうなら、何もしないのが一番良いんじゃないの?」

世の中の閉塞感に反対するポジションのメタファーとして表れたラッパーが、最初は「(そんな世界は)壊しちゃえ」と叫んでいたのに、最後は「何もしないのが一番良いんじゃない?」と主張が変わっていくのが、ある意味衝撃的でした。

いったい、何が大事で、何が正しいのか。

原作本はこれから読みますので推測で言いますが、原作はあくまでも8050問題を扱っており、その問題を現代社会における問題と重ねていることはないのかな、と思うんです。それを演出して魅せているのが本谷有希子なのかと。

掃除機を中心としたある一家を舞台とした問題ではありますが、鬱屈した悶々とした世界を覆す必要性の訴え、それを観ている観客それぞれが抱える問題として投げかけ、そのための破壊行動について問いかけている舞台、そう感じました。

それを実現するメタファーとしての長男の友人、長男に代わって住み込むことになるその友人が、父親の「困ったなぁ」という発言をよそに、家庭内を文字通り「壊して」いく。しかしながらそこには常に「何もしなくて良くない?」という考えが横たわる訳です。

壊して良かったのかどうか、それは分かりません。娘が壁を一生懸命上ろうとするもなかなか上れず、でも最後には頂上に手が掛かる姿は、未来への可能性なのかもしれません。

最後、掃除機に対して「もっと視野を広げた方が良い、外の世界を知るべきだ」と諭すラッパー、それは「壊す」ことの難しさ(掃除機が外の世界を知る難しさ)がありつつもやるべきだという示唆であり、事実、その「壊す」役割を、その難しさ、いや、その効果の高さを考えて?自分では行わずに友人であるラッパーに託した長男。我々はどのようにこの現代を脱出すれば良いのか、それを考えるきっかけになる舞台と感じましたし、そのように演出した本谷有希子だったのではないかと。

私の勝手なイメージとして、本谷有希子は空間を立体的に使うイメージがあります。今回、長女の部屋、父親の部屋が垂直に近い角度の床の上にデザインされているのもその流れのように感じました。掃除機目線である上目を表現しつつ、最後、長女が登り切る壁としての存在であるその舞台空間はさすがだな、と感じました。また、もっと登場人物個々の気持ちに入り込んだ舞台を作る印象の本谷有希子が、ある意味普遍的なモチーフとして主題(今回は5080問題)を表現しているのは、自身の作ではないからなのか、とも思いました。

原作本購入しました。本谷有希子の舞台と比較しつつ読んでみたいと思います。

掃除機は、外の世界を観ることになるのかなぁ。。