ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。

 このブログは春原 圭が運営しする、よろず文章読み物ブログです。さまざまなテーマに関して僕なりの考察を加えつつ、読んでくださるみなさんと一緒に考えていこう、という趣旨で運営されています。

 そのため、コメント欄では記事内容についての忌憚ない感想を皆さんからいただき、それについてこちらからお答えして、さらにそこから意見交換を発展させて話題を広げていきながら互いの考えを深めていくことを重視したいと思っております。

 なので、記事内容に全く触れずに初めまして挨拶と自ブログ宣伝のみのテンプレート的なコメントはご遠慮いただきたく、よろしくお願いします。
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 常々『聴かず嫌い』する音楽好き(のつもり)なやつを皮肉っぽく批判してる僕だけど、それでも無自覚に『聴かず嫌い』をやっちゃってることはしばしばある。アイドルにせよバンドにせよ、とにかく次から次へとニューカマーが出てくるもんだからこっちもいちいち把握し切れないし、車を運転中にラジオでオンエアされるのを流し聞きしながら「お?」と思ったりした曲は動画とかでチェックするけど、そうでもなければそのままスルーしてしまいがちになる。複数人構成のユニットだったりするとグループ名が平凡だと記憶に残らないし、逆に奇抜でもキワモノ的な印象にミスリードされてしまい自然と「パス!」ってなってしまう。そんなわけで、何となくスルーしちゃってるアーティストも結構いるわけだ。
 緑黄色社会もそのひとつ。メンバーの誰かが『緑黄色野菜』を聞き間違えたのをそのままユニット名にしたというこのバンドも、存在を知ってからも名前のイメージで何年かスルー状態だった。相対性理論と混同して「やくしまるえつこって人がいるとこでしょ」なんて勘違いしてたくらいである(なのでもちろん相対性理論の方も同様の聴かず嫌い状態であった)。
 その緑黄色社会の『ずっとずっとずっと』をFMラジオのヘビロテで聴いてどストライク来たのがこの夏のこと。それと前後して聴いた『Mera!』でさらに魅かれ、ドラマ主題歌に使われた『LITMUS』で、この短期間で一気に僕の中で赤マル急上昇したのだった。曲のノリ、女性ボーカルの声質と歌唱法、歌詞世界のどれもかなり僕好みで、さすがに今までスルーしてしまってたことを後悔するとともに不見識を大いに恥じてしまった…。
 こんな風に聴かず嫌いしてしまうことの弊害は、実は僕好みだったり実力派だったりするアーティストや楽曲をやりすごしてしまったもったいなさというか損した感もそうなのだが、それに加えてだいぶ後になって彼らの真の良さに気づいて目覚めた時にはそれらがすでに一般には認知されてしまっており、結果的に世間の流行の後追いと同じになってしまうことのカッコ悪さもあって、損した感倍増なのである──そうなりたくなくて、ラジオだったりネットだったりでニューカマーのアーティストや楽曲は漏らさないように気をつけてるつもりなのだけど…、まだまだ聴かず嫌いしてる(あるいはそのことにすら気づいてない)アーティスト、きっとたくさんいる。そして何年か後に「ああ損した!」なんて思っちゃうんだろうな…。まあ、ある程度は仕方ないことだけど。
 とりあえず今回、遅ればせながら「緑黄色社会、結構いいな」と気づいたところで次は上述の相対性理論をもっとじっくりチェックしてみよう。その次はあのアーティストでその次は…、なんてやってる間にも新しいアーティストが続々登場しては取りこぼして、後になってから目覚めてはまた損した感をおぼえて──なんていたちごっこを、それでも僕はこれからも続けていくんだろうな…。
   









 先月末、遅ればせながらワクチン2回めの接種を終えました。1回めが先々月末で2回めが先月というのは、全国的には決して早い方とは言えず、周囲の人たちが打ち終えて安堵してる声を聞く中、まだ順番が回ってこない自分に不安を感じつつ、接種日が決まってからは決まってからで、ちゃんと2回打ち終えるまでは感染しないでね、と祈りながらの日々だったわけですが…。
 でもとりあえず無事2回打ち終えてから、効果が現れ始める2週間も経過し、とりあえずは安心しております。…とは言ってもブレークスルー感染の恐れはあるので基本的な予防は今までと変わらないし、3回めのブースター接種もほぼ間違いなく受けることになるでしょう。ま、万全を期すに越したことはないですから、通常の予防とも併せて取れる方法は極力取ることにします。
 で、ワクチンといえば副反応。以前の記事にも書いた通り、高齢者優先枠で早々と2回の接種を終えた母が一両日の軽い腕の痛みだけで済んでるのを見て、最初から「副反応っても大したことなかろう」なんて思ってましたし、実際1回めの接種後は僕もその程度ですんでたので「やっぱり大したことないや」って感じで、2回めの方が副反応が出やすいという評判も「ふうん」程度にとらえていたのですが…。
 甘かった…。2回めの接種の翌日は腕の痛みだけでなく38度近い熱と頭痛と倦怠感で、マジ動けませんでした。一応買ってはいたけどあくまで念のための、いわば御守り代わりくらいのつもりで、実際1回めの時は全く用無しだった解熱剤も1回2錠で2回の計4錠服用、夜も22時過ぎにさっさと布団に入ってひたすら睡眠、その甲斐あって翌日は何とか熱も下がり、まだまだ完全ではないながらも何とか仕事に復帰はできましたが…。しかし、副反応を思いっきりナメてた感は否めない。完全に高をくくってました。参った…。38度まで行かなかったからまだマシだったんだろうけど、これで39度超えなんてことになってたら──それでもコロナに感染して発症なんてことになるよりはよっぽどマシには違いない。中等症Ⅰでも一般的な副反応なんかの比ではないわけで、上述の僕のそれのレベルだと軽症以下ですから。
 ま、何にしても2度の接種を終えて1ヶ月、それでもウイルス自体がが根絶されず存在してる限りは吸い込む可能性はあるし、体内に存在すれば発病しなくても感染にはなるし、自身が大丈夫でもそのウイルスを他人にうつす可能性はあるから、決して安心はできない。もちろん僕からのウイルスを吸い込んだ人も接種済みであればその人も感染しても大したことにはならなくてすむわけだが──その意味でもワクチン接種は周囲のためであり自分のためでもある、前にも書いた通り紳士淑女のマナーというか身だしなみなんだな…。なんてあらためて感じてる次第であります。
   









 先月の秋場所の新十両は2人。そのうちのひとり、北青鵬はまだ10代の若さで、初土俵から8場所というスピード出世だった。両親ともモンゴル人で本人もモンゴル生まれだが、5歳で来日して以降は家族ともども日本在住で、協会公式にも『北海道出身』とされており、いわゆる一連のモンゴル力士たちとは一線を画す存在かも知れない。しかしそんなことうんぬん抜きで、このペースでスピード出世を続けたら、これは土俵を大きく盛り上げる存在になるぞ、と今から期待が膨らんでしまう──そんな北青鵬の新十両場所、果たしてどのくらいの活躍が見られるのか、と思っていたのだが…。
 まあ、皆さんご存知の通り場所直前のPCR検査で北青鵬はコロナ陽性と判定され、同じ宮城野部屋の他の力士もろとも秋場所は全休を余儀なくされてしまったのだった──宮城野部屋全員のコロナ全休はこれが2度目で、北青鵬自身も前回、幕下の地位で1場所全休している。これがなければ新十両も1場所早まってて秋場所は十両の上位で迎え、そこでの成績次第では、あるいは来月の九州場所では新入幕、なんてことにもなってたかも知れないのだが…、特例で番付の地位は据え置かれるとはいえ、九州場所が実質の新十両場所となる。せっかくのスピード出世に水を差された感じで、もちろん本人も歯がゆいだろうけど、相撲ファンの立場としても非常に残念なのは間違いない。
 この"昇進場所がフイになってしまった"といえば、ついこの人を思い出してしまう──栃乃若…、高校相撲の実績を携えて鳴り物入りでに入門後順調に出世し、師匠の現役時代の四股名と同じ読みの四股名をつけられるくらい師匠はじめ周囲から大きく期待されたその力士は十両も早々に卒業して一気の新入幕は春場所で、兵庫出身の彼にとってはご当初、幕内力士として地元ニシキを飾るはずが、例の八百長事件で場所は中止、地元凱旋はおじゃん。翌5月の技量審査場所で、テレビ中継もないままの地味な新入幕場所となってしまった。これでケチがついたからか、その後は度重なる怪我もあって十両と幕内の往復を繰り返し、結局十両の地位で「モチベーションが失せた」と若くして引退してしまった──あの春場所中止を境に、こうも相撲っぷりが極端に変わってしまうものか、モチベーションというのはホントに大事だな…、と思ってしまったものである。
 その分水嶺に、北青鵬にとっての秋場所がならないかという懸念が…。彼のここまでの勢いとポテンシャルを考えれば取り越し苦労かもと思ってしまうが、いかんせんモチベーションというやつは侮れないからなぁ。今回自身の陽性がきっかけで、怪我で低迷して十両下位で捲土重来を期す炎鵬、そして先場所の復活優勝をきっかけに進退問題を払拭しようと意気込む、内弟子である北青鵬にとっては実質的な師匠でもある白鵬も同じように休場を余儀なくされており、大事な先輩の大事な場所までフイにしてしまったというダメージが本人にとってどこまで影響するかは、やはり心配されてしまうところである。番付は据え置かれるからいいとか、そういう問題では北青鵬にとっても白鵬や炎鵬にとっても決してないはずだから。
 もちろん「そんな雑念など振り払って自分の相撲に全力を注ぐことに集中しろ」という一言に尽きるだろうし、実質の師匠である白鵬もおそらくはそのように彼に言うことだろう。コロナ禍という不運な時期ではあるけれど、条件はどの力士も同じなわけだから。むしろ、感染したらどれだけ大変かを身をもって知ったことで、現在も出場停止中のあの力士やあの力士みたいなハメをはずすことなく自身を謹んで、真面目に相撲一本に集中してもらいたいものである。まだまだこれから先の長い力士生活で。より大きな花を開かせるためにも──とはいえ、やはり気持ち的にはつらいよなぁ…。
 









 コロナ患者が日本でも増え始めた昨年の春頃から、遠からず医療崩壊の恐があるという警告はさんざんされてきていたが、今年に入って入院できず自宅療養を余儀なくされる人が増え、その自宅療養中に容体が急変して死亡、という例が続出するに至って、医療崩壊はもはや現実のものだ言わねばなるまい。コロナの症状のニュースでよく聞かれるのが表題の『軽症』『中等症』『重症』という3段階の用語で、中等症にもⅠとⅡがあって、その両者が入院か自宅療養かを判断する境界線(実際には両者とも要入院治療レベルなのだが、現状そのキャパがないので)とされているようだ──
 で、この3段階について、一般的な人の多くは『軽症』が「全然平気、風邪程度」で『中等症』は「息苦しさが出そう」程度、そして『重症』に至ってもまだ「入院が必要だろう」程度というイメージしかないようだが、実際の医師がその言葉を用いる際には。『軽症』=血中酸素値は96%以上で肺炎ではないレベル、多くは自然に回復するものの、病状の急変もあり得るため重症化リスクが高い患者は入院対象。『中等症』=Ⅰでは血中酸素値が93%~96%で息苦しさや肺炎が認められるものの患者自身の自覚症状がないケースもある。これがⅡになると血中酸素値が93%以下になり酸素投与を要する。『重症』=肺炎が進行し自力呼吸ができず、ICU治療や人工呼吸器装着が必要。さらに悪化すると人工心肺(ECMO)を使う場合もある──という具合に一般のイメージと専門的な見方との乖離が大きいためしばしば認識違いで判断を誤る患者が多く、そんな一般の認識に対して警告的に正そうとする専門家の声もよく聞かれたりするのだが…。
 しかし、上述の一般的なイメージはいずれも国語辞典的なイメージともほぼ等しいわけで、医療の専門家の使う一般的でも辞書的でもないイメージで医療ごとに疎い一般の人が捉えるだろうか? 普通は捉えないよな? シロウト的な言葉の語感としては軽症だの中等症だの言われれば、言葉の額面通りに取ってしまうだろう。ましてやコトは生命に関わる感染症である。ただでさえ希望的に解釈したがるのは、これは人情ではなかろうか。専門家=特殊な立場で一般人側の認識ばかりを要求するのって、どうなの?
 医学の世界の中で専門的な意味合いで用いるならともかく、一般向けにはやはり容体急変から死亡の可能性のあるレベルを『軽症』だの『中等症』だのという表現の仕方は、ちょっと改めた方がいい(ちなみに『重症』も一般的には生命の危険がある場合にはあまり用いない。そういう場合は『重体』もしくは『重態』)に、シロウト的には(敢えてそう言います)と思うんだけど…、いかが?
 生命に関わる病気に関する用語だからね、単なる言葉の問題で片づけないで、シロウト相手にはシロウト目線で一般的な言葉を選んで欲しいと思ってしまいます。
 









 みなさんニュースでよくご存じの通り、米軍のアフガニスタン撤退と前後して、タリバンが首都カブールを制圧し、大統領は海外に逃亡して旧政府は崩壊、20年前のタリバン支配下の圧政を恐れた庶民たちが大挙して海外脱出を図って空港に殺到し、中には飛行機にしがみつく人までいたりして空港は大混乱、現在もアフガニスタンに取り残されたままの脱出希望者は戦々恐々の日々を送っている──タリバンの首脳は以前のような弾圧は行わず国民の権利は尊重するとは表明しているが…、彼ら的な(←ここ重要)イスラム教解釈に基づく神の教えの範囲内でどこまで人権が尊重されるか、またその政策が組織の末端にどこまで伝わるか…、ニュースで伝え聞く現地の状況を見ていると、額面通りに信じる気には、正直言って到底なれない──
 旧タリバン政権下では教育を受ける権利を始め、さまざまな自由を奪われてた女性たち。先のタリバン崩壊後にそれらを勝ち得て自由を謳歌した女性たちの扱いは一体どうなるのだろう、なんて思ってたところに、食事が不味いとタリバン戦闘員に難癖つけられた使用人の女性が惨殺されたなんてニュースが飛び込んでくれば、やはり暗黒時代の再来を懸念してしまう。アフガニスタンの女性たちは一体どうなってしまうのか──同じその頃、日本ではSNSで知り合った女子高生とやりとりしてる旦那に嫉妬した嫁さんが女子高生を夫婦であちこち車で連れ回したあげくに殺害した、なんてニュースが数日にわたって報じられた。安易に既婚男性とSNSでやりとりする女子高生とそれに嫉妬する嫁さん…、女子高生もちょっと軽率なのは否めないが決して浮気とか不倫とかいうレベルの付き合いではないし、犯人夫婦の方も女子高生よりもずっと大人である。話し合うつもりだったと言いながらあちこち連れ回してるうちに気持ちをコントロールできなくなってしまい嫉妬に狂ったあげくに殺害して遺棄してしまうって…。アフガンの女性たちがこのニュースを見たら何て思うかな?
 女性のさまざまな権利と共にタリバンが禁止しているのが娯楽であり、音楽を奏でることなど絶対許されることではなかったのだが、タリバン崩壊後にそれらはかなり緩和され、アフガンにも音楽家が何人も出てきた。その中でも人気歌手のひとりだった男性が、自らの歌を動画配信したことでタリバン戦闘員に自宅に踏み込まれて外に引っ張り出され銃殺されるというニュースも飛び込んできた。やはりアフガンは先の暗黒時代に戻ってしまうんだな──同じその頃、日本ではコロナで緊急事態宣言中の愛知県でかなり大人数の観客で密状態の野外音楽イベントが開催され、会場では酒(ちなみにこれもイスラムでは御法度)も提供されたという。主宰者は急な宣言で準備が間に合わなかったと弁解しているが、当然ながら知事は大激怒している。でもせいぜいこの主宰者に今後のイベント貸出を許可しない程度で、刑事事件にまでなる話ではないし、ましてや主宰者や出演者を引きずり出して銃殺なんてことは間違っても起きない。コロナ感染の危険を冒す(実際観客に感染者が出ている)という、ある意味テロ同然の行為と言えるのにである。これがアフガンだったら…?
 そんな中、日本でも地下鉄の駅でいきなり顔に硫酸をかけられるという事件が発生した。アシッド・アタックといえばイスラム圏の国で頻発する事件である。まさか日本にもタリバンが? などと禍々しいものを感じてしまったのだが──わかってみると加害者は日本人で被害者は大学の後輩。先輩である加害者の方が理由にもならないような逆恨みを被害者の後輩に抱いていた、なんて話だった。報道を見る限り被害者の方にも相応の原因はありそうだな、という気はしたが、いずれにせよ取るに足らない小さな問題であることに間違いなかろう、本家の国でのそれとは比べるのもアホらしいレベルの──
 そんなわけで、表題の通り「日本って平和だよなぁ…」って思ってしまう。アフガンの現状を見れば、それはいいことだと言えるのかも知れないけど、でも何だか…、である。
 









 先々月、小田急線の車内で起こった刺傷事件は、頻繁に電車移動する多くの人にとって少なからず戦慄だったのではなかろうか。30代の男が牛刀を振り回して乗客を切りつけ、10人が重軽傷を負ったこの事件であるが、犯人はまず逆手に持った牛刀で20歳の女子大生の胸を2回刺し、逃げる女性を追いかけて背中を刺した後も執拗に切りつけた。執拗に襲われた20歳の女子大学生が重傷の他、20代から50代の乗客の男女10人が刺傷、女子大生以外の刺傷者は犯人が振り回した刃物に当たって怪我をしたと見られ。刺傷以外に逃げる際の転倒などで負傷した人もおり、女子大学生以外はいずれも軽傷だが、複数の被害者が人混みや電車利用に恐怖を感じるなどの精神的ショックを受けているという。犯人ははサラダ油を床に撒いて着火を試みるも失敗、ドアコックを使い現場から逃走するも数時間後に数キロ離れたコンビニで自ら店員に自分が犯人であることを告げ、殺人未遂容疑での逮捕に至った──というのが事件の概要である。
 犯人が「以前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思った」と供述したり、犯行前日に万引きを女性店員から摘発されたのが犯行のきっかけで、当初の目的もその店の女性店員だったりなどから、女性への一方的な歪んだ感情が原因という見方がされ、フェミ的観点でこの事件を論じたがる向きも多いが…、ターゲットは女性でも「幸せそうな…」だったり直近でやり込められたりした相手であって女性一般ではないし、被害が複数の男女無差別に及んでいることを考えれば、そっち方面に話を限定してしまうのはどうか…、と僕個人的に感じる。それよりも僕がこの犯人に対して危惧することは──
 今回の犯行、殺意を持って凶行に及びながらも結果的には誰も死に至らしめておらず、重傷ひとり以外は軽傷ですんでること、サラダ油に着火しての放火が現実的には"不能犯"であること、そしてコンビニ店員を介して自ら警察を呼んでいることなどを考え合わせると、刑罰的には大した刑にはならなそうである。かなり大それたことをしたような印象であるが、実際には実刑にこそなれ刑期はそんなに長くはなかろう。
 この犯人がほどなく出所後、ちゃんと更生できるかどうか。以前から上述の屈折した感情を抱き、今回も逆恨みを犯行動機とするこの彼が、出所後の世間の白い目や前科による就職難からの生活苦の中「幸せな女性に対する逆恨み」がますます増幅され、より凶悪さを増しそうな気がしてしまうのは、僕だけでしょうか?
 そう考えると上述のようにこの事件をフェミ的観点で男への敵愾心だけで斬るのはそんな犯人の鬱屈性に油を注ぐだけだと思ってしまうのである。女だけでなく男も含むより無差別な凶悪事件を誘発しかねないことへの危惧、この事件を考えるに当たってはそこまで思いを致した上で、性別を限定しない多くの人の身の安全をまず念頭に置いた考察がなされるべきではないだろうか。
 









 神戸市の代表駅は、神戸駅と三ノ宮駅のどちらになるのだろうか? …と問われれば、市名を冠してるのだからやはり神戸駅でしょう。レトロな駅舎も重厚で貫録も風格もあるし、駅周辺もオフィスや官庁が並んでて、市の政治経済の中心といった感じである──だけど商業地の集積度や観光名所へのアクセスという面では三ノ宮駅に軍配が上がるだろう。駅を出た風景の賑わい度やファッショナブル度は圧倒的に三ノ宮駅の方が上だ。と同時に関東や九州などの他地方からの来訪者にとっては、山陽新幹線新神戸駅からも地下鉄で1本、ともすれば歩けたりもする三ノ宮の方が圧倒的にお馴染みなのではなかろうか──あくまでも他所者的なイメージではあるが、この『いつ街』カテゴリ記事がそもそも"他所者目線"の散策記をコンセプトとしてるので、その辺はご容赦いただければ、ってことで…。
 そんなわけで、僕がヴィジターの立場で訪れる際にも、まず三ノ宮で下車するのが常である。駅を降りたらすぐに繁華街が広がっている…、と言いたいところだけど、海岸と山地に挟まれて平地が東西に細長い神戸の街はどこも細長く伸びてるように感じられ、それは三ノ宮も同じで、線路と平行に繁華街が伸びている感じがする。それでもショッピング街も遊興街もホテルや商業ビルもひと通りそろっており、神戸を代表する大繁華街としてのたたずまいは十分感じられる──ただ、高架の駅舎はその割には大きくはなく、駅そのものとして見ると、やはり神戸駅に比べて見劣りしてしまうかな…。接続する他社線も、それにともなう駅利用者数も三ノ宮駅の方が多いんだけどね…。
 で、この『いつ街』記事的には地元で暮らす人の生活の匂いに重点を置きたいので、普通だったら大繁華街が広がる大都市のターミナル駅を取り上げることはあまりないのであるが…、三ノ宮駅から見える場所に、ずいぶんと庶民的なアーケード商店街の入口があって、中に入ってみると、一般的な地方都市によくある感じの個人商店が立ち並び、気さくで庶民的な店主や店員さんと、買い物客のおばちゃんたちの談笑の声がそこかしこで聞こえてくる。観光その他で遊びに来る他所からの人向けの顔だけではなく、地元の生活者向けの顔も、この三ノ宮の街にはちゃんとある──
 ──という僕の抱いてる三ノ宮のイメージだが…、その多くが実は阪神淡路大震災前のものだったりする…。あの大震災ではご多分に洩れず三ノ宮の街も壊滅的に破壊され、以前に僕が何度か利用した駅そばのカプセルホテルのビルも瓦礫と化してしまった。あの地震がもしも自分が宿泊してる時に起こってたらと思うと…。その、震災の年の秋に降り立った三ノ宮駅前はまだ更地と瓦礫が目立ち、そこかしこで工事用の重機が稼働していた。それからもう四半世紀以上。もちろん震災の名残りはほとんど見られず、三ノ宮の街は再び元通りの賑わいを取り戻している。
 ──と思うのだが、その後足がすっかり遠のいてて、三ノ宮はもとより神戸方面に久しく言っていない。兵庫県内には法事で何度も行ってるんだけど、京都から山陰本線経由で行く但馬エリアばかりだから、神戸付近とは気候も人柄も違いすぎる。なので正直、その後の三ノ宮界隈が当時と比べてどう変わってるのか、変わってないのかは、正直わからない。ネットその他の映像で見る限りだとほぼ昔の通りのような気はするのだが、街の人の心は果たして…? もともと僕の体質にも合う好きな街ではあるから機会があればぜひまた訪れたい気持ちはあるのだが、果たして再び行ける日は来るのだろうか。法事で但馬へ行く途中の寄り道には遠回り過ぎるから、三ノ宮訪問のために遠出するのは、難しいかな…?
 









 自宅を出て、本来の最寄駅の逆方向へ歩くこと18分のところに別の鉄道会社の駅がある。現在僕は業務の都合でこちらの方の駅を使うことの方が多く、駅までの長い道のりをテクテク歩いている──距離が長いのもそうだが道中はほとんどが住宅地で、店とかはあまりなく、ほとんどがありきたりな戸建住宅で時々低層マンションという光景が続いている。
 そんな中にポツンと喫茶店が1件あったのだが、5年前に潰れて取り壊されて、そこには新たに建売住宅ができた。その翌年あたりには少し大きめの食品店が閉店し、跡地はやはり建売住宅が3件できた。そしてついこないだ潰れた新聞販売店の跡地も、やはり平凡な建売住宅になった──わずかに残った牛乳販売店と、農家のおじさんがやってる自家栽培野菜の販売店も、雰囲気的に廃業は時間の問題か? で、跡地はやはり何の変哲もない建売住宅になるんだろうな…。
 町内に2、3件ある食品スーパーはそのエリアの徒歩圏内ではあるが、10分ちょっとの距離がある。最寄りのコンビニやファミレスなども同様で、なおかついずれのお店も交通量の多い道路沿いにある。ちょっとおやつと飲み物買いにスウェットとサンダルで出かけたり、ちょっと一杯飲みに出てくるには不向きといえよう。買い物難民とまでは言えないが、決して便利ではないのは間違いない──
 生活の当事者として考えても「不便だな」って感じであるが、通勤で歩いて通りすがるだけの立場で見ても、立ち寄る場所が全然なくただ歩いて通りすがるしかないというのは、不便でもあるし面白味もなく思えてしまう。住宅街の中の喫茶店とか一杯飲み屋とかは近所のおじさんやおばさんたちが集まる親睦の場としての役割も果たしてるわけで、それらが全然ないこのエリアの人たちは、どこで親睦を深めてるのだろう。公民館や集会所の類もエリアにはないようだし。農家の多い地区でもないから互いの畑の野菜をおすそ分けしたりされたりの行き来の時に縁側でお茶飲みながら世間話、なんてノリの付き合いもないようだし──都心に通勤する旦那さんや学校でクラスメートたちと顔合わせる子供たちはともかく、専業主婦の奥さんや高齢者さんたちはどうなんだろう…。なんか、人間関係が希薄になってく一方な気がするのは、僕だけでしょうか?
 本来の最寄り駅への道中にはコンビニも酒屋も美容院もあって…、と書き始めてハタと気がついた──住宅しかないその住宅街には床屋や歯医者、マッサージのたぐいももちろんないんだ。これ人間関係が寂しいとか面白味ないとかの次元ではなく、もっと切実な問題を孕んでないか? 住宅街といえども最低限の施設は、足腰の弱った高齢者もいることを考慮すればせめて徒歩10分以内で行ける場所になければ、いくら住民がたくさんいても、果たして街と呼べるのだろうか。
 ま、通りすがりの他所者目線ですけどねw
 

 今まで全く気にも留めてなかったことなのだけど、何気なく問うブログを見ていたら…、一番初めのこの記事からこの9月で丸20年になるではないか。
 当時はテキストサイトで、ブログへ移行したのはその10年以上後ではあるけど、記念の節目と言っていいだろう。

 だからといって特にお祝いをするつもりはないけれど…、でもこれを機にあらためてよろしくの意味合いを込めて、リブログで最初の記事を改めてお送りします。

 次は10年後、30年の節目を目指しましょうかね…、さすがに無理かなw