他人の成功をねたんだり不愉快に思ったりするのは、本質的に度量の狭い、いやしい性格があるからにほかならない。

不幸なことだが、世の中には大らかな気持ちを持てない人が多い。
他人をあざ笑うことしか知らない人間ほど不愉快なものはない。こういった人たちは、どんな立派な業績であれ、他人の成功を腹立たしく思うことが多いのである。人がほめられているのを聞くのは耐えられない。相手が自分と同じ道を志していたり、同じ職業であったりすればなおさらである。人のあやまちは許せても、他人が自分を追い越して何かをするのは我慢がならない。

そして挫折した時、自分が今までこっぴどく他人をけなしていたことをはっきり悟るのである。あるひねくれた批評家は、自分のライバルについてこう語っている。
「神はあれほどの才能を彼に与えた。これが、どうして愉快な気分でいられるというのだ?」

ケチな了見しか持たない人は、他人をあざ笑ったり攻撃してあらをさがしたりすることしか考えない。分別のないあつかましい行為や反道徳的な行為以外のあらゆるものに、いつでも嘲笑を浴びせかねない。こんな人にとって何より救いが得られるのは、人格者に弱点があるのを知った時である。
「賢い人間がミスを一つもしなかったら、愚かな人間はたまらないだろう」とジョージ・ハーバートは述べている。

賢者は愚者がおかすミスを避けることによって、愚者に学ぶところがあるが、愚者は賢者の示す手本を見ても何も感動しないことのほうが多いのだ。

「偉大な人物や充実した時代のいいところを見ずに、欠点ばかり気にするのは悲しむべき性格だ」と、あるドイツの作家は嘆いている。

「向上心 サミュエル・スマイルズ著」より