大分で葬儀を済ませて帰宅し、テレビを点けてみると、いつもと変わらぬバラエティ番組で、タレントたちが大笑いしていたので驚いた。
兄が死んだというのに、この人たちは何が可笑しくてそんなに笑っていられるのだろう、と本当に不思議だった。ニュースでも報道されない。新聞にも載らない。
兄が死んだというのに、私を取り巻く社会は、何事もなかったように平然と回り続けていた。
それがあまりに不条理に感じ、子供っぽく社会を呪った。
実家の客間には大掛かりな祭壇が設けられ、親類たちがひっきりなしに出入りしていた。その、少なくとも我が家には渦巻いている非日常感が、辛うじて心のバランスを支えていた。
祭壇は数日で取り払われ、初七日が来て、四十九日が来て、母の故郷の共同墓地に遺骨は納められ、我が家にとっての「非日常」の日々も、ゆるやかに終わった。
兄の位牌と遺影は仏壇に祀られ、毎朝、線香を立て、お鈴を鳴らし、手を合わせ念仏を唱える。
常に最先端の情報を採り入れ、私に発信していたカッコいい兄が、古色蒼然たる「線香の香る世界」の存在になってしまったことが、いかにも似つかわしくなく、歯がゆかった。そんな更新を止めてしまったような古臭い世界に、兄に収まって欲しくはなかった。
しかし現実に、兄の「更新」は止まってしまったのだ。もう新しい情報が追加され、最先端で居ることは無い。年を追う毎に、兄が蓄えていた最新情報も、みるみる古くなって行く。1981年の6月8日を境に。
兄がもし、あのまま「更新」を続けていたら、どんな存在に成長しただろうかと、月並みに考える。
文章や絵画には非凡な才能を見せていた。何らかの表現者として名を馳せていたかもしれない。
あらゆるメディアの知識を吸収し、自分の中で噛み砕いて批評する能力には、さらに長けていた。サブカルチャーの伝道師として、例えばライムスター宇多丸のような存在になっていたかもしれない。
音楽への造詣も深かった。音楽評論家、あるいはミュージシャンとして成功していたかもしれない。
右脳だけでなく、左脳の発達も抜群だった。IQ140のズバ抜けた頭脳を活かして、学者として大成していたかもしれない。あるいはビジネスマンとして第一線で活躍し、読書や映画や音楽は、趣味として嗜み続けていたかもしれない。
そして、インターネットは兄にとって格好のツールになったはずだ。早いうちにのめり込み、ITの分野で大きな業績を残したかもしれない。
身内褒めと思うだろうが、兄はどう見ても、明らかに非凡だった。兄は本当に、本当に、自分のなりたい者になれる、幅広く無限の可能性を抱えていた。
ただ、それを支える丈夫な肉体だけは、与えられなかった。
兄は、どれだけ悔しかったろう。
全てを見渡し、吸収し、把握する聡明な頭脳だけを与えられ、それ故に、自分の肉体の現実も、痛いほどに理解していたはずだ。
能力と可能性は与えられ、それを活かすべき未来は与えられないという残酷。
神は居ない。居るはずもない。居るとしたら、少なくとも人間を愛してなどいない、と、平凡な私は思う。
しかし兄は決して運命を呪い、生きることを投げ出したりはしなかった。
常に前向きに、移り変わる社会の膨大な情報に耳を傾け、吸収し、蓄積し、命が尽きるギリギリまで、更新をやめようとはしなかった。そして、達観し尽くした穏やかな物腰で、自分を取り巻く世界を、人々を、愛していた。そして誰からも愛されていた。
そのことが何より、今これを読んでいる皆さんに伝えるに足る、兄の非凡さだと思うのだ。
そんな兄の生きざま、痛ましい挫折を間近に見ていた私が、兄の無念を受け継ぐように大いに発奮し、何かを成し遂げるような充実の人生を歩んでいれば、まことにスワリのいい話となるが、生憎にして、そうはならなかった。
兄が死んでから30年を超える、自分の人生を見渡してみる。
呆然とする。
兄ならば最大限に活用し、あらゆる夢を叶えたであろう健康な肉体を、いたずらに浪費し、流されるがままに、ろくに成長することも「更新」することもなく、この年まで「何となく」生き永らえてしまった。並以下の、怠惰な人生を送ってしまった。
兄に合わせる顔がない。
今は何年かおきに見る、兄の鮮明な夢は、懐かしさや甘美さと同時に、かなりの痛みも伴う。
私は兄のような存在を肉親に持ちながら、その悲痛な最後を看取るという経験をくぐりながら、どうしてそれを自分の人生に活かせなかったのか。もっとも真っ当にして建設的である、「兄の分まで頑張って生きる」という道を避けて通ってしまったのか。
それなりに健全な肉体を与えられつつも、聡明な頭脳を、それ以前に強靭な魂を与えられなかった「不肖の弟」の、もうひとつの悲劇…と呼ぶのもおこがましい、お粗末極まりない一席である。
だからせめて、書く。兄のような存在が居たことを、出来るだけ多くの人々に伝えるために、怠惰な自分を珍しく鞭打って、ここに書き遺す。
私に出来るのはその程度であり、せめてその能力ぐらいが、果たして自分に与えられていたのかは、これを読んでいる皆様に委ねられる。
こんな辛気くさい長文に最後までお付き合い下さった皆様。厚かましいついでのお願いだ。
これを機に、兄のことを知ってくれまいか。覚えていてはくれまいか。
ことさら脆弱な自分には、とうてい受け止め切れなかった、兄の生涯から本来なら学ぶべき前向きな教訓…すなわち「兄の遺産」を、譲り受けてはもらえまいか。
頑張れば必ず報われるというわけではない。
しかし、頑張ることは、それ自体に意味が有る。
これこそが、きっと兄の遺した最大の教訓だと思うのだ。
私はそれを活かせなかったが、せめて誰かに伝え遺す。
どうかどうか、兄のことを、覚えていて欲しい。
兄の名前は、秀樹と言います。
私の大切な、自慢の兄なのです。
兄(推定5歳)
兄(17歳)