ここまで書き終えて、大きく息を吐く。
目を閉じて、再び兄に思いを馳せる。
そしてまた、健全ではない魂は、きっと健全とは言えないことを考え始める。
兄が生きていた頃から、兄が亡くなってから今まで、数え切れないほど繰り返し、胸によぎらせていたことだ。
兄にとって替わりたい。自分の健康体を、兄にこそ活かして欲しい。
自己卑下や自己憐憫以前に、どう客観的に見ても、兄のほうが生きる価値のある存在なのだから。
「人はみな平等に価値がある」などという、聞こえのいいおためごかしに貸す耳はない。比べるまでもない。自分より兄のほうに価値があるのは、いくら何でも明白だ。
兄のズバ抜けた明晰な頭脳と、美しい魂、無限の可能性の「器」を、自分が代わりに提供できたなら、それで私自身も、ようやく報われる。自分の生まれて来た意味を、見出せるのだ。
兄の代わりになれるなら、自分には、こんなに幸せなことはない。
呆れているみんなの顔が見える。いくつもの、忠言や叱咤が聞こえる。
しかし私は振り切って、白い霧の中へと分け入って行く。
もう「遺言」は書き終えたのだ。
霧の向こうに、西別府病院の、外来用の正面玄関が見える。
玄関をくぐると、あの懐かしいリノリウムと、病院食の配膳室の匂いに包まれる。
奥へと続く、長い長い廊下を進む。
進むに連れて、次第に濃く、兄の気配を感じる。
この向こうに兄が居る、そう分かっただけで、殺風景でモノクロだった廊下が、にわかに明るく華やかに、色づいてくる。
廊下を行き交う、先生や看護師さんや、車椅子に乗せられ母親に付き添われている、兄と同期の患者さん達の顔を、次々に思い出す。
身体が軽くなる。歩幅が広がり、早足になり、やがては勢いよく駆け出す。
この奥に、秀樹兄ちゃんが居る。
大好きな、私の兄が。
兄に伝えたいことが、山ほど有る。兄が更新出来なかった30年分の情報が、あふれ返っている。
今までは兄に教えてもらいっぱなしだった私が、今度は兄に教えるのだ。
秀樹兄ちゃん。夏休みの午後に、退屈なテレビを眺めながら、「これがゲームになったらいいのになぁ」と言っていたのは、あれからそう遠くなく、現実になったんだよ。
秀樹兄ちゃんがいち早く僕に教えてくれた「スペースインベーダー」どころじゃなく、まるで実写のような絵を自由自在に動かせるゲームも出現したんだよ。
映像技術も進歩して、どんな現実離れしたイメージも驚くほどリアルに見られるようになったんだよ。
インターネットという新しいメディアが出来て、世界中のあらゆる情報が画面ひとつで見られて、アマチュア無線よりはるかに多くの人々と、気軽にコミュニケーションを取れるようになったんだよ。
『魔法少女まどかマギカ』ってアニメを知ってるかい?いやもっとも前の『新世紀エヴァンゲリオン』を知ってるかい?きっと秀樹兄ちゃんなら気に入るはずなんだ。いくらでも語れる奥深さだよ。朝まで、秀樹兄ちゃんと議論したいんだ。勝てる気はしないけど。
ももいろクローバーZを知ってるかい?アイドルの最終進化型と言われるすごいグループで、プロレスが大好きだった秀樹兄ちゃんなら、一発でハマるはずだよ。LIVEを見に行って欲しいんだ。とんでもなくパワフルで、身体の芯からアツくなれるんだよ!
僕が全部、教えてあげてもいい。でも本当は、秀樹兄ちゃん自身の目と耳と頭で、味わって欲しいんだ。
全速力で走り抜け、突き当りのT字廊下を左に曲がる。
第二病棟の光景が広がる。左側にズラリと並んだ低いパーティションの病室を横目に見ながら走りに走り、突き当りのプレイルームに飛び込んで行く。
絨毯敷きのフロアの奥の図書コーナーに、あの懐かしい後ろ姿が見える。
ヘッドギアをかぶった、丸坊主の大きな頭。
それを埋め込むようにして、軽くイカらせた、骨ばった華奢な両肩。
読んでいる本のページにペタンと手を置き、細い指で難儀そうにページの端をつかみ、ゆっくりとめくる、あの緩慢な仕草。
頼りなさげに身体をユラユラと揺らしている、小ぢんまりと、飄々と、しかし確かな知性を感じさせる、あの佇まい。
秀樹兄ちゃん!と、荒い息のすきまから、叫ぶように呼びかける。
帰ろう、秀樹兄ちゃん。ここはとても快適だけど、秀樹兄ちゃんが収まってるには狭すぎるよ。テレビや本だけでなく、自分の目で見て、知りたいことが、山のように有るはずだよ。自分の持っている無限の可能性を、外の世界で伸び伸びと羽ばたかせたいはずだよ。だからここを出よう。果たせなかったことを、全部叶えて欲しいんだ。秀樹兄ちゃんなら、何にだって、自分のなりたい者になれる。あらゆる分野で活躍できる。だから、自分の足で立って、歩いて、ここを飛び出して欲しいんだ。 僕が代わりに、そこに居るから!
身体を揺らしながら、反動をつけるようにして、兄がゆっくりと振り返る。
あのクリクリと大きくて愛嬌の有る、知性の輝きを湛えた瞳で、私を見つめ返す。
懐かしそうに私を見て、そして、あのニヒルな笑みを浮かべて、
小さく、首を横に振る。
目を覚ます。
何度も繰り返した、深い溜息を吐く。
分かってるよ。秀樹兄ちゃんが、そこで首を縦に振るような人じゃないって。
僕自身が頑張ればいいんだろ。