長年愛用してきたアメブロですが、ディープ過ぎて恥ずかしい記事がたくさんあるので一時的にLINE BLOGに移行します。

いつかアメブロに戻ってきます。

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ワンころ年

2018.1.10

 

さりげなく年を越してしまった。

毎日新聞を読んで毎日日記を書くはずだったのに全然できてない。

あ。「毎日新聞」ではなく毎日、新聞を読むね。

 

2017年はどんな年だっただろうか。

振り返るといつもそうだが、激変した年だった。

環境はいつも変わり続けている。

きっと僕がそう望んでいるからだ。

 

年の瀬で感じたのは、みんながSNSで2017年の振り返りやあけおめ投稿をする中、最近新しく出会った人もいて、逆に時が経つにつれて会わなくなっていった人もいる。

会わなくなってしまった人の中にも、どうしてるのかなあと気になる人とそうでもないひとがいる。

でもそれってどうしようもないよなあって。

 

SNSのうすーい繋がりだけを残して。

知っているようで何も知らない人ばかり。

 

僕がそうであったように、時が経つと人は変わる。

その人を取り巻く環境も、考え方や行動も。

昔知っていた人はもう今は僕の知るその人ではない。

 

結局、今、面と向かって話せる目の前の人を大切にするしかない。

大切にするってなんかモヤッとしてるけど、その人を理解しようと努めるしかない。

例えば、高坂やタイガのことはよくわかってる。

きっと彼らも僕のことは大体わかる。そんな友を少しでも増やせたらいいなあ。

 

 

2018年の目標は、自分の人生を誇りに思えるようにすること。

就職という人生の大イベントを前にして、そう誓う。

 

人生を、誇りに思えるようにするために、まずは誇りに思える仕事に就く。

 

そうして僕が選んだ一つ一つの選択が、積み重ねた時間が、僕の人格を形作っていく。

かっこいい生き様でいるために、一つ一つの選択に誇りを乗せる。

これは、ちょうど一年くらい前に書いた日記。

内容が恥ずかしすぎてずっと温めてあった。

 

 

世界線の種

 

札幌に引っ越してから、日常的に歩く時間が長くなった。今はすすき野のカラオケでバイトしているが、帰りが遅くなることが多い。歩くのは嫌いじゃないし、お金もないから、すすき野から桑園まで50分くらいかけてゆっくり歩いて帰ることが多い。時間がもったいないとは自分でも思うけど、僕はその時間が好きだ。

 

歩いているときは本当に暇で、好きな音楽を聴きながら、いろんなことを考えながら帰ることが多い。本当にどうでもいいこと、「あれが欲しいな」とか「あの予定が楽しみだな」とかが浮かんでは消えたり、将来とか人生、時間について考え始めて止まらなくなったりする。歩きながらだし、いちいち考えがまとまらないことがほとんどだけど、たまに自分でも感得する時がある。何か少しでも答えが出たときとか、何かを強く感じたとき、それらは忘れちゃいけないと思ってメモする。こうやって日々考えていることをまとめて自分なりの哲学を持つことは、とても大切なことだと(最近は)思っている。

 

本を読んだり、話を聞いたりするときも、ただ何となく享受するのでなくて、自分なりに考えを持たないと感性は豊かにならないと思う。街を歩く数えきれないほどの人は、そこら中にタケノコみたいにある無数のビルに住む何百人もの人は、それぞれの哲学を持っているのだろうかと、たまに不思議に思う。そもそも、感性が豊かだからって何の役に立つのかさえわからないけど、僕は一生豊かな感性を求め続けたい。

 

そういえば父親も、歩きながら考え事をするのが好きらしい。よく寝る前に散歩に行っていて、ある日「いろんなことを歩きながら考えているんだ」と言っていたことがある。きっと僕たち息子のことで悩んだり理解できなくて考えたりしていたのかもしれない。血は争えないなあと思う。

 

口数が少なくて、僕たちのことにもあまり口出ししてこない父親に、珍しく強い口調で「日々を意識して過ごせ、何となく生きちゃだめだ」と言われたことがある。そのときはよく意味が分からなかったが、最近になってよくその意味について考える。父親がどういうつもりで言ったかわからないし、受け取り方も無数に考えられる。

 

大学に入ってから、いろいろな経験をしてきた。僕の中でとても大きい出来事としては、獣医学部への入学に失敗して、理学部に入ったことだ。一年生のときは、喪失感とコンプレックスでとても不安定だったし、なにをしても身に入らなくて、虚しい日々を過ごした。初めて失敗というものを突き付けられて、プライドが壊れ去った。二年生のときも、頭では切り替えて頑張らなくちゃいけないのをわかっていても、今やるべき勉強に興味を持てず、挫折感を拭い去れないでいた。そんな日々の中で、様々な考えや感性を持っていて、それぞれ違うことをして過ごすたくさんの人々を見ているうちに、自然と「イマという時間をどう過ごすのが最も有意義なのか」「なぜ僕たちはたくさんの有意義な物事があるこの世界で無意味なことやくだらないものにばかり流されてしまうのか」ということを日常的に考えるようになった。

 

そもそも、僕たちにとって有意義な時間とはどういうものなのだろうか。

 

僕たちの行動のひとつひとつが、僕たちの未来を少しずつ変えていく。もちろん外的要因もあるが、僕たち自身の未来は過去と現在の自分の行動に最も影響を受ける。影響の大小は様々だし振れ幅も大きい。何を選んでも全く今後に影響を与えない選択も無数にある。きっと僕がさっき見たニュースが、僕の将来を大きく変えることはないし、先週友達に投げかけた言葉が未来を大きくかえることもおそらくない。それでも、僕たちの行動のひとつひとつは僕たちの未来を変えうる可能性を持っている。イメージするとしたら、この世界のほかに、無限個のパラレルワールドが広がっているとして、僕たちが今とる行動によって世界線が決まる。僕が選択を行った瞬間にほかの世界線は僕たちの生きる現実では消滅し、幻の存在になる。戻ってほかの選択を試すことはできない。

 

本や新聞を読むことや、たくさんの人と話すこと、何かを作ることは、漠然と有意義なことだと思ってはいても、実際何の役に立つのかはわからない。何も知ろうとしなくても、何も新しいことに挑戦しなくても、結果は同じかもしれない。しかし、何もしなければ絶対に何も起こらない。行動を起こすことで初めて何かが変わる可能性が生まれる。つまり、僕たちは何か行動を起こすことで新しい世界線の種を蒔いているってことだ。こんな恥ずかしい言葉よく文字にできるなと自分でも思うけど、今はすごくしっくりきている。思えば、浪人して北大の獣医学部を目指していた時も、毎日「勉強しても受かるとは限らないけど、勉強しなかったら絶対に受からないぞ」と自分に言い聞かせていたなあ。それが拡張されてより曖昧で分かりにくくなっただけってことなのだな。そうやって、ひとつひとつの行動の秘める可能性を信じることが、日々を意識するってことではないだろうか。

 

高校生のとき、親友が欠かさずに勉強していたから「なんでそんなに勉強してるの?」と聞いたことがある。そのとき彼は「しないことが怖い」と答えていたけど、今の僕なら「そうか、君は若いのにそれが一番大きく広がる世界線の種だと分かっているのか」と答えて空気を凍らせるだろうな。

 

さて、今日も一日、僕の世界線の木がどのパラレルワールドよりも、誰のよりも大きく育つように願って、種を蒔き続けようか。

 

 

改めて読んでみてくっせえなあと思うけど。

インターンのESを書いていて病んだ僕自身に贈る。