その少年はお屋敷の裏門をくぐり抜けた。少年の名はパコ。お屋敷はパコの自宅の近所にあった。貴族のナルシソ子爵のお屋敷だった。またパコの父親の仕事場でもあった。
 パコは裏門にナルシソと書かれた表札が掲げてあるのを認めた。飾り文字で書いた名前を宙に指先でなぞって理解した。パコはまだ十四歳の少年だった。裏門にツタが絡んで風雅なおもむきを添えていた。表の正門にはなにも絡んでいない。
 門をくぐったところでだれかに左腕を掴まれた。パコはギョッとして振り向いた。バラの茂みのはざまの小道にパコと同じぐらいの年格好の少女が立っていた。背はパコより少しだけ高かった。してみると、パコより年上なのだろう。
 やにわに腕を掴まれておどろいているパコに、少女はいたずらっぽく微笑した。
「わたしの家に勝手に入っていいと思ってるの?」
 パコはどぎまぎした。このお屋敷をわたしの家と言っている。つまりこの少女はナルシソ子爵の家族だろう。パコは悪いことをしているつもりじゃないのに、腕を掴まれて急に後ろめたい気分になった。言い訳するように返事した。
「父さんがナルシソ子爵のお屋敷の庭仕事をしてるから手伝えって」パコは自分の声がうわずっているのを感じた。「そう言ったんだ」
「本当?」少女は探るようにパコの顔を覗き込んだ。「あなたのお父さん、いつからうちで園丁をしているの?」
 パコはこないだからだと答えた。パコの父親は庭師で、あちこちから庭仕事を請け負ってきた。近頃になってナルシソ子爵と契約を結んだ。色んな客から小口の仕事をいくつも請け負うより子爵のお屋敷一本のほうが実入りが良い。父親は喜んで毎日子爵のお屋敷に出入りしていた。
「まあ」と少女は言った。「じゃあ、あんた、ルチアの後釜の人の子供なのね」
 父親の前任者の園丁のことはパコはぜんぜん知らなかった。少女の口ぶりは、前任者が辞めたおかげでパコの父親がうまいことポストに収まったのだと言っているようだった。ちょっぴりあざけるようにも聞こえた。
「ルチアは何十年もうちの庭を作ってくれたのよ」少女は言った。「でももう年だから引退したんだわ。あんたのお父さんは、良いタイミングで雇ってもらえたね」
 なんて言っていいかパコはわからなかった。父親からは庭仕事の一部を教わっていたが、貴族に対する礼儀作法など教わっていなかった。それに、パコはむかしから口下手なのだ。
 パコが口をつぐんでいるのを見ると、少女はパコの顔に顔を近寄せて「こういう時は『ありがとうございます』ってお礼を言うのよ?」と、パコの髪の毛をクシャクシャ撫でた。
「ありがとうございます」パコはオウム返しに言った。
「わたし、ペス」少女は名乗った。「ナルシソ・ペス。子爵の娘よ。あんたの名は?」
「パコ」そう名乗って、なんとなく羞恥心を覚えた。「父さんもだけど」
 パコのセリフに少女ペスは解せない顔つきをした。ややあって合点が行ったらしく「ああ、親子で同じ名前ってこと?」と言った。
 パコは黙ってうなずいた。
「あんたは息子のパコなのね」
 ペスは言った。相変わらず勝ち誇ったような調子があった。ペスはパコにそばのバラの茂みを見せた。きれいな赤いバラが咲いていた。そのみごとさは、少年のパコにもわかった。庭師の息子だからだ。
「きれいでしょ」ペスは言った。「このバラ、ルチアの丹精よ? ルチアは長いことうちの庭でバラを育ててたの。あんたのお父さんに同じ仕事ができて?」
 パコは考えた。父親はバラ専門ではない。なんでもひと通りこなせる。でも貴族のお屋敷で庭仕事を請け負うのははじめてだから、バラを栽培するのは不慣れかもしれなかった。
「きっと、きれいに育てるよ」パコは胸を張って答えた。「僕がやる」
「あら、あんたにバラができるの?」ペスは笑った。「坊やのくせに」
 パコは笑われても気にしなかった。
「草花の育て方は一応習ってるんだ」
「バラは難しいのよ?」
 ペスはそう言うと奇妙な笑い顔でパコに近づいた。挑んでいるようだった。ペスはパコの手をとると、バラの木のほうへグイッと引っぱった。
「なにを……」パコがおどろくと、
「知ってるでしょ? バラにトゲがあるのを」ペスは美しく咲くバラの花のつるに両手で掴んだパコの指を近づけた。「もし、あんたの仕事がへたっぴでバラがきれいに咲かなかったら」ペスはパコの指をつるに生えたするどいトゲトゲに接近させて「あんたの手、バラのトゲで傷つけるよ?」
 パコは恐ろしくなってペスの顔を見た。ペスはパコが恐怖の表情を浮かべているのを見てとると、口元をほころばせた。それからペスはパコの手を離した。かわりにパコの顔を両手ですばやく挟んだ。
「パコ。あんた、いくつ?」
「十四」パコは答えた。声が震えた。
「わたしのふたつ下ね」ペスは言った。「じゃあ、しっかりやってね、パコ」
 ペスは去って行った。パコはその場に立ち尽くしてスカートの裾をひるがえして駆けてゆく少女の後ろ姿を見ていた。

「やあ、タレガ君か」
 お屋敷の客間。入ってきた当主のナルシソ子爵が声を出した。先ほど使用人に通されて客間の椅子に腰かけている若い男が、立ち上がってお辞儀した。二十代半ば。若者は白い歯をニッと見せて笑った。
「ごきげんよう、閣下」
 タレガと呼ばれた若者に閣下と呼ばれて、ナルシソ子爵は顔の前で手を払うしぐさをした。
「私に閣下呼ばわりはやめてもらいたいな」子爵は言った。「きみはじきにうちの娘婿になるのだから」
「でも、閣下にただのナルシソさんでは呼び捨てするみたいです……」
「ナルシソさんで十分だ」子爵は爪を磨きながら、「じゃなけりゃ、お父さんでもよい。いずれそうなるのだ」
 若者は肩をすぼめた。ナルシソ子爵は言った。
「ペスを呼ぼうか? あれは落ち着きのない娘でね。家庭教師がついてると思ったらいつの間にか姿をくらましているんだ。家のどこかにはいるだろう」
「いえ、無理にお呼び立てなさらないでけっこうです」タレガが言った。「今日は近くまで寄る用事があったので、閣下にご挨拶しとこうと思ったまでですから。また仕事に戻らないといけないので……」
「そうか。それは残念だ。近々またゆっくりしていきたまえ」
 タレガは立ち上がって一礼し、客間から出て行った。客間の出入口の扉をあけるとお屋敷のメイドが立っていた。二十歳ぐらいのメイドだった。タレガは客間に残った子爵のほうを向いて再度一礼すると、扉を閉めた。それから脇に立つメイドを見た。
 タレガはニヤリと笑い、メイドの顔に手を伸ばした。メイドの赤らんだほっぺたに手をやると、すぐに離した。メイドに歩き出すよう身ぶりで促し、二人は連れ立って歩き出した。
 
 庭ではパコが父親の庭仕事を手伝っていた。低木の剪定をしていた。長いハサミでチョキチョキ枝葉を切ってゆく。少年のパコも父親と同じ作業をしていた。手馴れたものだった。
「ジュニア」パコの父親が息子に呼びかけた。「さっき、裏門のほうでだれかと話してたが、ありゃあだれた?」
「ペスさん」パコは答えた。「ナルシソ子爵のお嬢さんだよ」
「なんだ、お前、お嬢様と会ったのか」父親は言いながら手を休ませずハサミをうごかした。「あのお嬢様は十六とか言ってたかな……高等学校へ通う年頃だが、ここのお嬢様は家庭教師が何人かついてお屋敷で勉強してるそうだ」
「へえ」
 パコは関心なさそうに相槌を打った。
「もう婚約者がいるんだとさ」父親が言った。「資産家の息子さんらしい。爵位はもっとらんようだが、子爵様としても将来有望なお金持ちに嫁がせたほうがいいってわけだろうよ」
 それを聞くと、パコはハサミの手を止めてしばし突っ立っていた。やがてまたハサミをうごかした。父親は枝葉を切り終えた低木の周りを掃除し出した。
「父さん」パコが言った。「ここの庭に、バラが咲いてるんだ。あっちのほう」パコは裏門の方角を指さした。「バラの栽培、僕にやらせてくれないかな?」
 父親は意外なことを言われて息子をまじまじと見た。
「別に構わないが」父親はホウキを掃きながら「バラはわりと難しいぞ。特に、きれいに咲かせようと思ったらな」
「任せてよ」パコは胸を拳固で叩いた。「きれいなのを咲かせるから」

 次の日の午後。学校が終わるとパコは作業着に着替えてナルシソ子爵のお屋敷へやってきた。父親の姿はないが仕事道具が庭に置いてあった。急ぎの仕事がないので、休憩してるらしかった。
 パコは裏門のそばにきた。バラの茂みを見て回った。バラの木々は辺り一帯にたくさん生えていた。昨日の少女が前任の園丁の丹精を自慢するのもうなずけた。みごとに咲き誇った花がずっとつづいていた。パコはバラの茂みの端まで歩いて、花が咲いていない株をいくつか見つけた。
 花のない株の前でしゃがみ込んだ。この木に花が咲かないのはなぜだろう。パコがバラの木の緑のつるに手を伸ばすと、背後から、耳元に人の声がした。
「またきたの?」
 パコはびっくりしてよろめいた。ペスがパコの真後ろに立っていた。パコが地面に手を突きそうになるのを見て、少女はケラケラ笑った。ペスはパコの腕を掴んで立たせてやった。
「今日もお父さんのお手伝い?」
 ペスにきかれてパコは首を振った。
「バラを見にきたんだ」
 パコの言葉に、ペスははじめて感心した顔をした。
「へえ。あんたがバラを育てるって言ったの、本気だったのね?」
 パコはうなずいた。ペスは辺りを見回し、いたずらっぽい顔つきになって、パコの手を掴んだ。
「仕事を手伝う用がないなら」ペスはパコの手を引いて「こっち、きて」パコがためらっているとグイと引っぱった。「さあ、くるのよ。パコ」
 パコは少女に手を引かれてバラの茂みのなかの小道を歩いた。やがてお屋敷の建物が見えた。少女とパコは玄関から建物のなかへ入って行った。



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つづく