幕が上がる。
 古い家のバルコニーに一人の少女が姿を現した。年齢は十七、八といったところ。愛くるしいといえなくもない顔立ちだが、背は低かった。着ているのは袖を膨らましたむかしふうのパフスリーブのドレス。赤と白に派手に彩られている。
 少女はバルコニーに出るとそとの空気をゆっくりたっぷり吸い込み、深呼吸した。ついでに両手を高く上げて背伸びの運動をした。ラジオ体操でやってるやつだ。背伸びする時に両足のかかとを上げてつま先立ちすることも忘れなかった。その運動を何度か繰り返した。
 少女はバルコニーで両手の指を組み合わせて祈るように空を仰いだ。
「神々しいような素敵なお天気」少女は空を見ながら言った。「今日の空はなんてすばらしいお空かしら。こんな日にはきっと良いことがあるわ。悪いことなんて、ないに決まっているわ」
 するとバルコニーが張り出した屋外の道を一人の青年がやってきた。年齢は十八、九といったところ。赤いマントをひるがえし、大時代的な衣装に身を包んでいた。下半身に真っ白なタイツをはいていた。青年は古い家の前で立ち止まり、バルコニーに立つ少女を見上げた。
「僕はあの子を知っている」青年は独り呟く。「あの子も僕を知っている気がする。いや、気ばかりじゃなく、彼女は僕を知っているにちがいない。ということは僕と彼女は知り合いなんだな」
「あたしに声が聞こえる場所で、なにブツブツ言ってるの?」少女がバルコニーから声を出した。「あなたとあたしが知り合いですって? それ、どういう了見?」
 青年は声がするほうを向いた。
「了見、とは、はて、なにごとであろう」青年は腕を組んで考え込んだ。「彼女は僕の了見を問うているようだ。すなわち僕と彼女が知り合いであると、そう呟いたのは僕にいかなる思案があってのことかと、かように……」
「セリフ長すぎ」少女がしびれを切らしてバルコニーから遮った。「ロミ。あんたはいつもそうやって無意味なことばかりブツブツ言ってるのだわ。あたしたちの将来のことを棚に上げて」
「僕はヒロミだよ」青年が言った。「略すなよ。ジュリ」
「昨日や今日知り合った仲じゃないんだから、あだ名で呼んでもいいじゃない?」
 少女が言った。ヒロミという名の青年は古い家の外壁に立てかけてあった梯子を両手で掴むと、少女ジュリが立っているバルコニーにかけて、梯子段をよじ登った。いちばん上の段まで登るとバルコニーのへりに手がかかった。
 ジュリはヒロミを見て、
「まあ。いやらしい」
 ヒロミはずっこけた。
「なにもしてないだろ?」
「女の子が立ってるバルコニーに梯子から登って入ろうとするなんて。あたしにいやらしいことをしようとしているに決まってるわ」
「なぜそう決めつけるんだよ?」
 その時、音楽が鳴った。オルゴールのような音色。音楽が聞こえ出して、青年ヒロミはバルコニーのなかへひらりと飛び込んだ。少女ジュリは後ずさりした。
「あたしをおそう気なのね」ジュリはわが身を両手でかき抱いて「ああ、なんて不幸な女の子でしょう。あたし、キューピー・ジュリはいやらしい男の人に自宅のバルコニーで抱きすくめられて犯されてしまうのです。ホラ、この人、真っ白なタイツなんかはいてる。脚のラインがくっきり目立つタイツなんかはいて、いやらしいったらないわ」
「タイツのどこがいやらしいんだよ」ヒロミは口を尖らした。「きみをおそったりしないよ。僕はジュリの中学校と高等学校の先輩だぞ?」
 また音楽が聞こえた。オルゴールのような音色。それが鳴ったのを合図に、ジュリは着ているドレスを脱ぎ捨てた。同じタイミングでヒロミは着ているマントを脱ぎ捨てた。古風な服を脱いだ。ジュリとヒロミは互いの脱いだ衣服をとって着始めた。
 ジュリはヒロミの男物の服を着てマントをつけた。少し服がだぶついていた。ヒロミはジュリのパフスリーブのドレスを着ていた。膨らんだ袖が手首からだいぶ上のところにあり、つんつるてんだった。
「ロミ」ジュリのドレスを着たヒロミがヒロミの服を着たジュリに話しかけた。「あなたがあたしん家にくるのは、どうして? トイレを借りたいから? 食事のお相伴にあずかりたいから? それとも?」
「ジュリ」とヒロミの服を着てマントを羽織ったジュリがジュリの服を着たヒロミに話しかけた。「きみに会いたくてきたのだよ。マイハニー」
「あら、いつからあたしたち恋人同士になったのかしら?」ジュリのドレスを着たヒロミが小首をかしげて「ロミ、あなた、あたしに交際を申し込んだことあって?」
「だいぶ前に告白したじゃないか、ジュリ」ヒロミの服を着たジュリが言った。「忘れたというのかい? 高等学校の階段の下で、僕はきみに打ち明けただろ?」
「なんて打ち明けたの?」とジュリのドレスを着たヒロミ。
「きみが好きだって」とヒロミの服を着たジュリ。
「まあ」ジュリのドレスを着たヒロミは大げさにあけた口を手のひらで覆って見せた。「あたしが好きなの? 好きだと、あたしになにがしたいの?」
「だから、付き合いたいって」ヒロミの服を着たジュリが言った。
「付き合って、なにがしたいの?」ジュリのドレスを着たヒロミがヒロミの服を着たジュリに近寄った。「ねえ、なにがしたいの、あなた? 握手? 握手がしたいの? そんなお付き合いってあって?」
「僕の口から言わせようとするなんて」ヒロミの服を着たジュリがバルコニーのへりに後ずさりした。「いやらしい女の子だな、ジュリは」
「あなたの気持ちが知りたいだけよ」とジュリの服を着たヒロミ。「男女のお付き合いをして、ただ一緒にいたいだけなんてこと、ありえないわ。ロミがあたしと本当にしたいことがなんなのか……」
「喧嘩がしたいのかも」ヒロミの服を着たジュリが言った。
「喧嘩ですって?」とジュリのドレスを着たヒロミ。
「僕ときみはもともと仲良しになるのが難しい運命なんだ」とヒロミの服を着たジュリ。「なにしろ、家同士が敵対関係にあるからね」
 音楽が鳴った。オルゴールのような音色。それを合図にヒロミはジュリのドレスを脱ぎ、バルコニーの床に置いてある別の衣装を着た。ジュリはヒロミの服を脱ぎ、ヒロミが脱ぎ捨てたジュリのドレスを着て自分自身に戻った。
 ヒロミは紳士の身なりになり、鼻の下につけひげをたくわえて、いかめしい口調で言った。
「おっほん。私はモンタージュ家の家長、モンタージュ・ヒロシである」父親になりすましたヒロミはジロッとジュリを見た。「失礼ながら、キューピー家の令嬢ジュリ殿とお見受けするが、いかがかな?」
 ジュリはパフスリーブのドレスを着ながらお辞儀をした。ついでにスカートの裾をつまんで片足を後ろに引っ込めて軽く身体をかがめて挨拶した。
「あたしはキューピー・ジュリです」ジュリは答えた。「モンタージュのおじさまですね? ヒロミさんのお父様の」
「うむ」父親のフリをしてヒロミはうなずいた。「町いちばんの写真館を経営しているモンタージュ・ヒロシとは、私のことだ。時にジュリ殿。貴殿はうちの息子のヒロミをご存知かな?」
 ジュリはうなずいて、
「知っていますわ。あたし、学校でヒロミさんの下級生だったんです」心なしかジュリの顔が輝いて見えた。「同じ部活動をしていた時期もありましたわ。ヒロミさん、もう卒業しちゃいましたけれど」
「そうか。ヒロミもジュリ殿のことをわが家で話すのを聞いたことがある」モンタージュ氏に化けたヒロミはジュリを見て「だが、いいかね。貴殿はうちの息子とは決して仲良しにならないでいただきたい」
「えっ」ジュリは絶句した。「……どうして、ですか?」
「キューピー家の人間とモンタージュ家の人間が付き合うなんて、言語道断だ」父親に化けたヒロミは言った。「決して許されんことだ。このことはジュリ殿の父上も同様に考えておられるだろう」
「なんでですか?」ジュリはか細い声になり、「なんでキューピー家とモンタージュ家が付き合ってはいけないのですか?」
「わがモンタージュ家とキューピー家とには悪因縁があるのだよ」父親に化けたヒロミが言った。「過去に起きた一件のせいで、両家のあいだに深い川ができた。その川は深くて暗いから、決して埋まることがないのだ」
 ジュリは身体をわななかせた。父親モンタージュ氏に扮したヒロミは冷徹な眼差しでジュリを見ていた。
「良かったら、聞かせてください……」ジュリはモンタージュ氏に扮したヒロミに懇願した。「キューピー家とモンタージュ家になにがあったのかを」
「よろしい」父親に扮したヒロミは言った。「話すとしよう。話を聞いて、ショックを受けても知らないよ。この話はショックだよ。ショックもショック、大ショックなのだよ」
 モンタージュ氏に扮したヒロミはショックを食らって仰向けにバッタリ倒れるフリをして見せた。
「……という具合にお嬢さんがショックでやられやしないか、私は心配しているのだ」
「心配ご無用ですわ」ジュリは言った。「あたし、真実を知りたい気持ちでいっぱいですの」
「では、言うとしよう」とモンタージュ氏のフリをしたヒロミ。「恐ろしい話を話すとしよう。半世紀前もわがモンタージュ家は写真館を営んでいた。同様に半世紀前、キューピー家もマヨネーズ製造会社を営んでいた。ことの発端はほかでもない、キューピー家のマヨネーズ工場で起きたのだ」



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続く。