ジュリは固唾を飲んで聞いていた。その様子を見て、父親に扮したヒロミはやにわにつけひげをむしりとり、着ていた紳士服をガバッと脱いで、ジュリに近寄ると肩を抱いておでこにキスした。おでこにヒロミの唇の感触を覚えたジュリはヒロミの身体を突き飛ばした。
「ノン・プロフェッショナルッ」ジュリは腕を伸ばし、ヒロミを指さした。
「だって、仕方ないだろ」ヒロミは紳士服を着直して「ジュリが可愛くなっちゃったんだからさ」
「ちゃんとやんなさいよ」
 ヒロミはつけひげを再びつけた。
「半世紀前、キューピー家のマヨネーズ工場でマヨネーズを作っていた工員たちのなかに、寝不足の工員がいた」父モンタージュ氏のいかめしい口調でヒロミは言った。「マヨネーズというものは、貴殿もご存知の通り、酢と卵と油と少しの辛子でできている。寝不足の工員はうっかりして賞味期限が切れた卵を使ってしまった。卵はふつう黄身と白身が別々に分離しているが、その卵は腐りかけで、黄身と白身が混じり合っていた。寝不足の工員はそのことに気づかなかったのだ」
「まあ。なんてこと……」
「腐った卵で作られたマヨネーズは出荷したの商品のうちのほんの一部だったろう」父親に扮したヒロミはつづけた。「ところが、だ。不運なことに、わがモンタージュ家の営む写真館に、マヨネーズが大好物のマヨラーの従業員がいた。そいつは三度の食事にマヨネーズを欠かさないだけでなく、マヨネーズを直接食べるほどだった。そいつが買って食べたマヨネーズに、くだんの腐った卵でできたマヨネーズが混じっていたのだ」
 ヒロミは父親の紳士服を脱ぎ捨てた。つけひげをむしりとると、床に置いてある背広を着て、床にあるカメラを三脚の上にのせた。
「うう、腹が痛い」写真館の従業員に扮したヒロミは顔をしかめた。「おかしいな。なにか悪いものを食ったかな……朝からマヨネーズしか口にしてないが……」
 ジュリが日傘をさし、ピンク色のパフスリーブのドレスを身にまとってバルコニーに置いた椅子に腰かけた。
「写真屋さん、早く撮ってちょうだい」ジュリが言った。「このあと侯爵夫人邸のサロンに行くんですから。時間がなくてよ。あたし、先月社交界デビューしたのよ」
「へい。いますぐ」従業員に扮したヒロミは腹を押さえながらフラッシュを焚く準備をした。「よ、よござんす。撮りますよ」
 パシャッと音がしてシャッターが切られた。
 ヒロミは背広を脱ぎ、カメラを三脚から下ろすと再び紳士服に着替え、つけひげをつけた。
「写真館の従業員が撮ったブルジョワ令嬢の写真は、ピンボケだった」モンタージュ氏に扮したヒロミが言った。「写真館にあってはならない失態だ。おまけにその写真は、ブルジョワ令嬢のお見合い用の写真だったのだ。ブルジョワ令嬢はピンボケ写真に腹を立て、息巻いた。悪い評判は令嬢が出入りするサロンから社交界の諸方面へ及び、わがモンタージュ写真館は経営悪化して閉店の危機に晒された。ピンボケ写真を撮った従業員は、腹痛の原因がマヨネーズによる食中毒であることを突き止めた」モンタージュ氏のヒロミはジュリをジロッと見た。「モンタージュ家は腐った卵を使ったマヨネーズをキューピー家に強く抗議した。ところがキューピー家は、寝不足でマヨネーズをこしらえた工員一名をクビにしただけだった。モンタージュ家への正式な謝罪もなかった。かわりに食中毒を起こした写真館の従業員宛てに、腹痛の薬を送ってよこした」
 ヒロミは父親の紳士服を脱ぐと再び背広を着た。ジュリは床にあるツナギの作業服を着て口にマスクをし、白い帽子をかぶった。ヒロミはカメラをもち、それを作業服の工員に扮したジュリに向けた。
「やいやい、キューピーんとこの」カメラをもったヒロミが言った。「お前らのマヨネーズのおかげで、こちとらおまんまの食いっぱぐれだい。よくも腐ったマヨネーズを売りやがったな……」
 パシャッ、パシャッと音がして、つづけざまにフラッシュが焚かれた。作業服姿のジュリは手で顔を覆った。
「キャーッ。まぶしいっ」
「怒りの閃光を食らいやがれ。マヨネーズのお返しだ……」
 パシャッ、パシャッ。作業服を着たジュリは顔を背けながらバルコニーのなかを走って逃げた。ヒロミはカメラを置くと背広を脱ぎ、また紳士服に着替えてつけひげをつけた。
「……以上がモンタージュ家とキューピー家のあいだに横たわる確執の原因なのだ。この確執は今日に至るも解消されておらん」父モンタージュ氏に扮したヒロミは言った。「そちらではどうか知らんが、わがモンタージュ写真館では従業員全員に周知を出しておる。道でキューピー家の関係者とすれちがったら、容赦なくフラッシュの雨を浴びせろ、と。嫌がらせにだ」
「半世紀も経つのに」ジュリは自分のパフスリーブを着て「まだ根にもってらっしゃるの? 写真館の評判も回復なさったでしょうに」
「まだ根にもっているのかだと?」モンタージュ氏に扮したヒロミは気色ばんで「それが貴殿らキューピー家の口から出るセリフかね。よろしい。そんな了見でおられるのなら……」
「了見ってなんですの?」ジュリが口を挟んだ。「根にもってらっしゃるのかときいたことに、あたしにどんな思案があるのかお知りになりたいのですか?」
 一瞬、ヒロミは父親の姿でポカンとした。
「……ほかにどんな理由があるのかね?」
「なら、お答えしますわ」とジュリ。「キューピー家が犯したあやまちはいまからでも償います。だからって、自分たちの子供同士がくっつくのを許さないのは偏狭ですわ。不寛容ですわ」
「お嬢さん。世界はイントレランスにできているのだ」
 ジュリはドレスを脱いでヒロミの服をとると着た。ヒロミになったジュリは父モンタージュ氏に扮したヒロミに話しかけた。
「父さん。僕、父さんに言わなきゃいけないことがある」
「なんだね?」とモンタージュ氏に扮したヒロミ。
「僕、実はキューピー家の娘のジュリと付き合っているんだ」
 ジャジャジャジャーン、と運命交響曲の楽想が鳴り響いた。父モンタージュ氏に扮したヒロミはおどろきに目を見張り、落雷に打たれたようにその場に崩れ落ちた。
「父さん、父さん」
 ヒロミに扮したジュリがかがみ込んだ。バルコニーの床に倒れたヒロミは寝ながらジュリのパフスリーブのドレスに着替えた。ジュリはそのままヒロミの服を脱いで、ヒロミがいましがた脱いだモンタージュ氏の紳士服とつけひげをつけた。ヒロミはジュリの姿で立ち上がった。
 モンタージュ氏に扮したジュリもゆっくりと立った。
「貴殿がうちの息子と付き合っていたとはな」モンタージュ氏になったジュリがやおら口をひらいた。「ジュリ殿。貴殿はわがモンタージュ家とキューピー家のあいだにある深くて暗い川を顧みなかったのかね?」
「顧みませんでした」ジュリになったヒロミは答えた。「ヒロミさんはとても優しい先輩でした。そう……付き合うまであたし、ヒロミさんをヒロミ先輩と呼んでいました。付き合ってからは」ジュリになったヒロミは言った。「ロミかヒロミです」
「そんなところまできみらの仲は進展していたのか……」モンタージュ氏に扮したジュリが大げさに嘆息した。
「あたしとヒロミさんの仲は切っても切れない関係ですわ」ジュリになったヒロミが言った。「ヒロミさんはあたしと毎週ベッドで寝ています。なにをしているか、大人のおじさまにはわかるでしょう? あたしたちが枕を並べて一緒に昼寝しているとでも思います? ヤってるんですよ。ヒロミさんはしょっちゅうあたしのなかに入っているの」
「そこまで言わなくていいよ」ジュリが地声で言って、顔を赤らめた。
「赤ちゃんができることしてるんです」とジュリになったヒロミ。「ヒロミさんも、あたしとの子供が欲しいって言ってます」
「きみらに子供ができたら、私はおじいちゃんになってしまうな」モンタージュ氏になったジュリはあごを撫でた。
 音楽が鳴った。ヒロミはジュリのドレスを脱いで、ジュリは紳士服とつけひげを脱いだ。二人は脱いだものをとりかえっこして着た。
「ですから、モンタージュのおじさま」ジュリがジュリのドレスを着て懇願した。「あたしとヒロミさんの付き合いをどうか認めてくださいませ」
 父モンタージュ氏に扮したヒロミはしばらく考えていた。無言のまま、腕を組んでバルコニーを歩き回った。8の字を描いて歩き回った。8の字を正確になぞろうと努力していた。ジュリはヒロミの手を引っぱった。
「いい加減にしなさい」
 ヒロミはつけひげをむしりとると、紳士服をバルコニーの床に脱ぎ捨てた。そのまま肌着姿でパフスリーブのドレスを着ているジュリに近づいた。「なに?」ジュリがきいた。ヒロミはジュリの背中に手を回すとドレスの背中のファスナーを下ろした。「ちょっと……」ヒロミはジュリの身体からドレスを脱がし、下着姿にした。
「親父が許してくれるかわからないけど」ヒロミは下着だけになったジュリを抱きしめて胸元にジュリの顔を押しつけた。「僕らはずっと一緒にいようね」
「……うん」
 ジュリがヒロミの胸から顔を離してヒロミを見上げた。涙ぐんでいた。それからまたヒロミの胸に顔をうずめた。
 幕が下りる。
 溶暗。
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