クラオは女を部屋へ引きずり込んだ。女は無抵抗だった。さっき夜道で薬を嗅がせて眠らしたのだ。身体を抱きかかえながら家まで連れてきた。
 部屋のソファに女を座らせた。グッタリしているので、背中をもたれるとたちまち頭を垂れた。クラオはかがみ込んで女の肩を抱いた。いい女だった。二十歳すぎだろう。男の性欲をそそられるが、クラオは別の欲求がまさっていた。女の身体を必要としているが、身体のあちこちを触ったりはしない。
 女の名前は知らなかった。見知らぬ人なのだ。駅の近くで見かけて、あとをつけてきた。この女を獲物にするか、迷っていた。いつも実行に躊躇する。気が進まない。だがやらなければ生きてゆけないからやむなくやるのだ。
 あとをつけながら、自宅の方角へ歩いて行ったらこの娘にしようと考えた。次の角を曲がって、通りを渡ったらあきらめようと思った。渡らずに直進したら尾行をつづける。女は角を曲がって、そのまま直進した。畜生。クラオは舌打ちした。十歩以上離れてつけてるので、クラオに尾行されていることは気づかれていない。
 女はしばらく歩いてまた角を曲がり、狭い道に入った。暗い夜道で、街灯はまばらだった。クラオは歩く速度を速めた。女の背後に近づいた。女が気づいて振り向いた時、クラオは彼女の顔があごにぶつかるぐらいまで接近していた。
 女の顔におどろきが広がった。クラオは彼女の身体に腕を回して抱きついた。ポケットからとり出したハンカチをすばやく女の鼻と口に押しつけた。女はもがいた。だがハンカチを通さないと息ができなくなって、次第に力が弱まっていった。ハンカチにはクロロフォルムが染み込んでいた。
 その道からクラオの家までは遠くなかった。酒に酔い潰れた恋人を介抱して家へ運んでやるフリをした。「まったく、弱いのに飲みすぎるんだから」とか「ほら、もうすぐ家だよ。頑張ってよ」と呼びかけた。女は時々もぐもぐ口をうごかしたが、言葉にならない声が洩れるだけだった。
 ソファにグッタリと寝そべっている女にかがみ込んで抱きしめた。恋人でも友人でもない見ず知らずの相手を抱きしめるのはおかしな感じだ。最初の頃は違和感を覚えた。場数を重ねるにつれ、だんだん考えが変わってきた。女は獲物だ。自分と関わりのある人ではない。自分は女のなかの成分が必要だから、分けてもらうだけだ。そう思ってから、抱きしめることにためらわなくなった。それに抱きしめないと次の行動に移れないのだ。
 クラオは女の顔が右側を向いていたので反対側に向けた。ソファに後頭部をのせて楽な体勢をとらせ、背中を抱きながら女の首に口をつけた。抱きしめるのはもしもの時の用心でもある。もし眠っている女が目を覚まして抵抗したら、逃げられないようにしなくてはならない。クラオは女の首筋に口をつけると、尖った八重歯で首筋の肌を咬んだ。脈のありかは何度もやっているのですぐわかる。するどい歯が皮膚を破って血管を傷ついた。血が出た。噴き出した血を一滴も逃すまいと口で傷口をふさいだ。そのまま夢中で血を吸った。
 クラオは血管から血を吸い込んだ。どのくらい飲んだか、かなりの量を啜ってクラオは満足した。血液で体内がみなぎっていると感じる。この感覚を得るために、獲物を捕まえてるのだ。身体が充電されたようだ。クラオは寿命が延びた気がした。
 血を吸ったあと、女の首筋の傷口に絆創膏を貼った。女の顔を覗き込むと、青ざめていた。いきなり血を失ったのだから当然だろう。もうこの獲物は用ずみだ。クラオは同じ獲物の血を複数回飲まないことにしていた。
 何度もクラオが血を吸った女は、吸う時にクラオの唾液が血管に入って、やがてクラオと同じタイプの病人になってしまう。すなわち血を吸わないと生きてゆけない病人に。そのことは知っていた。だから同じ獲物は二度と狙わないのだ。
 クラオは片手に毛布を巻きつけてソファの上でグッタリしている女を抱き起こした。目は覚めないが上半身がクラオのほうにもち上がった。クラオは女を抱き上げてお尻の下を抱え、抱っこした。血を飲んだおかげで体力が湧いている。クラオは女を抱っこしながらそとへ出た。
 道を歩いて町を横切った。ひとけのない真夜中の公園にたどりついた。クラオは公園にあるベンチに女を座らせ、身体に毛布をかぶせた。防寒のためだった。屋外に放置して女に凍え死なれては困る。毛布で女の全身を包み込むと、足早にその場を去った。風のように家へ帰宅した。

 ドラ・クラオは吸血鬼だった。古い一族に生まれたが、親から自分たちが吸血鬼だと知らされたのは十代の頃だった。
 母親はクラオの幼少期に早死にした。父親も健康的とはいいがたく、医者にかかるのを避けて暮らしていたため、ベッドに臥せっている日が多かった。ふつうの病気ではなかった。父は吸血鬼だが、人の生き血を飲むことが減ったために衰弱していったのだ。深夜に狩猟に出る体力は残っていなかった。
 クラオの父は棺桶のなかで寝る習慣だった。日光を浴びると皮膚が悪くなる体質なので、暗い場所にいるのを好んでいた。蓋をかぶせた棺桶のなかは完全な暗闇なので、父にはうってつけの寝床だった。暗いところが好きなので、息子にもクラオと名づけたのかもしれなかった。
 クラオが学校から帰ってきたある日、父は棺桶のなかからクラオを呼んだ。
「クラオ。よく聞きなさい」
 姿の見えない父が棺桶のなかで喋っていた。棺桶が言葉を発しているようで、奇妙な感じがした。
「お父さんは吸血鬼だ」棺桶が言った。「そして、クラオ。お前もまた吸血鬼だ」
 クラオはそれを聞いて動揺した。
「わが一族は先祖代々吸血鬼の家系なのだ」棺桶がまた言った。「お前のお母さんは生まれつきの吸血鬼ではなかった。お父さんと結婚して吸血鬼になった。そのせいで身体が弱くなってしまった。お母さんは長く生きられなかった」
「お母さんはなんの病気で死んだの?」
 クラオはきいた。
「病気ではない」棺桶のなかの父が答えた。「人の血を吸わないせいで衰弱して死んだのだ。われわれは生きている人の血を飲まないと生きてゆけないのだ。この体質が病気だというなら、吸血鬼という病だ」
 棺桶は黙った。クラオも黙っていた。絶望的な気分だった。クラオも吸血鬼なら、だれかの血を吸わないと生きてゆけないことになる。
「いままでクラオにはお父さんの血をこっそり飲ませていた」棺桶はまた言った。「お前が食べるビーフシチューにはお父さんの血が混じっていたのだ。そうしなければお前は成長できなかった。だが、もう限界だ。お父さんはお前に血を分けてあげられない。お父さんはもうすぐ死ぬ」
 棺桶は言った。クラオの目にモリモリ涙が盛り上がってきた。「お父さん、死なないで」クラオは泣いた。
「クラオ。われわれドラ家は呪われた一族だ。世の中から忌み嫌われる一族だ」棺桶は言った。「きっと、われわれはこの世に生きていないほうがいいのだ。だがクラオ。お父さんはお前には生きてほしい。吸血鬼の先輩としてよくよくお前に言っておく。死にたくなかったら、人の血を吸うことだ。嫌われてもとがめられても人の血を吸うのだ。お前が生きるためには、そうするしかない」
 父は棺桶の寝床で死んだ。死んだ時、父はいつものように棺桶のなかで蓋をかぶせたままだった。棺桶はもう一言もものを言わなかった。
 クラオは学校を卒業してから定期的に人の血を吸うようになった。夜遅くなって出かけた。もっぱら女の血を吸った。女の血のほうが美味しかった。
 夜道でいきなりおそって咬むことを考えたが、おとなしく血を吸われている人などいるはずがない。そこで麻酔薬を嗅がせるやり方にした。はじめのうちはクロロフォルムでグッタリした女を道で即座に咬んでいた。しかしその姿は人目につく。短時間しか血を吸えず、蚊よりいくらか多めに吸っただけで逃げなくてはならない。満足感を得られないまま、見つかるリスクばかり増す。
 そこで眠った女を家へ連れ込むようになった。血を吸った女を家でいつまでも寝かせておくと目が覚めた時面倒なので、屋外のどこかへ運び出すことにした。女たちが血を吸われたことに気づいたかどうかは確かめようがなかった。首筋にできた傷口に絆創膏が貼ってあるほかはなにも異状がないのだ。犯されたわけでもない。変な夢を見たように思って帰宅するだろう。貧血に気づくかもしれないが、女性に貧血はままあるから、おどろくほどではない。
 クラオは夕方そとを歩いていて町会の掲示板をなにげなく見た。そしてそこに貼り出されたものを見つけた。

  《吸血鬼にご用心》

 クラオは心臓が飛び上がりそうになった。慌てて見出しの下の文面を読んだ。

 《最近、当町会にて不審な人物に麻酔薬を嗅がせられ、血液を吸いとられた事件が発生しております。被害者は若い女性で、複数の女性が被害に遭っています。町会は防犯のため有志による夜間パトロールを実施していきます》

 クラオは掲示板から離れた。あまりじっと覗き込んでいると怪しまれる気がした。どうしよう、と思った。このままだと近所で獲物を捕ることができない。
 郊外へ出張して獲物を探すことも考えた。田舎ならひとけのない山や森のなかで女の血を吸ってずらかる手段もある。いよいよ地元で獲物を確保できなくなれば、あちこち遠方へ出かけてやるしかない。そのほうが安全ともいえる。
 この前女の血を吸ってからしばらく経ち、クラオはまた血が吸いたくなってきた。週に一度は血を飲むのが理想的なのだ。それほど頻繁にやると足がつくから月に一度ぐらいで我慢していた。地元で狩猟をするのもこれが最後かもしれない。クラオは夜になって出かけた。
 道を歩いていると若い女が歩いていた。小柄な女の子だ。クラオはいつものように尾行を始めた。今夜も迷っていた。この子にするかな。まだ未成年かもしれない。クラオは次の角を曲がらなかったら別の獲物にしようと思った。
 女の子は角を曲がった。クラオは舌打ちした。足を速めて近づいた。女の子は坂を上がって行った。ひとけのない坂だった。クラオは坂を足音を立てずにずんずんのぼり、女の子の背後に接近すると、彼女の後ろから両手を伸ばした。
 女の子は振り返った。いつものことだ。すでに出していたハンカチを彼女の顔に当てようとした瞬間、女の子はクラオを見て声を出した。
「ドラ先輩……」
 クラオは危うく声を出すところだった。声のかわりに手が出て、薬が染みたハンカチを女の子の口にかぶせた。羽交いじめにしてハンカチを当てつづけていると、女の子はグッタリした。
 クラオが眠らした女の子は、クラオの高等学校の後輩だった。よく知っていた。付き合っていたからだ。




続く。