クラオは高等学校で「マナー部」というクラブに所属していた。部員の数は多くなかったが、食事や社交の際のマナーを学ぶのがもっぱらの活動だった。活動内容の緩さでわかるが、積極的に活動に参加しなくていいし、熱心に活動する必要もないひまなクラブだった。
 学校の校則で必ず部活動にたずさわっていなくてはならない。活動熱心なクラブに加わりたくない生徒や、受験勉強に専念したいので忙しくないクラブを探している生徒がマナー部の部員だった。幽霊部員もいた。クラオは一年の途中からマナー部員になった。吸血鬼の自分がなるべく他人と関わらずに過ごせる部活動を探してたらマナー部を見つけた。
 一年からずっとマナー部員だが、適当なクラブだから部員同士の付き合いも緩かった。仲良しになって一緒に遊んでいる部員もいるが、クラオはだれとも懇意にならずにひっそりと過ごしていた。教室では同級生に「あいつ、暗いよな」と陰口を叩かれることがあるが、マナー部ではみんな自由だった。
 クラオが三年になった時、マナー部に一年生の新入部員が何人か増えた。そのなかにモフがいた。小柄な女子生徒で、最初は気にもとめなかった。入部した日に全員で自己紹介した。互いの名を覚える機会はそれだけだった。
 ある日クラオが部室の隅っこで本を読んでいると、下級生のモフがクラオに近づいた。「あの……」モフに呼びかけられ、クラオは本のページから顔を上げた。
「なに?」とクラオ。
「ドラ先輩、ですよね?」モフがきいた。クラオはうなずいた。「マナーの本読んでるんですけど、先輩はなんのマナーの本を読んでいるんですか?」
「マナーの本?」
 クラオはきき返した。
「ええ。わたしはテーブルマナー百科です」モフが答えた。
「マナーの本なんか読んでいない」クラオはもっていた本を示した。「僕は『怪獣怪人大百科』を読んでるんだ」
 モフは当てが外れてずっこけた。クラオは優しく説明してやった。
「きみ、モフちゃんだっけ? マナー部でマナーの本をまじめに読むやつなんかいない。いるとしたら、きみぐらいだ」クラオは言った。「うちの部は部活動をやりたくないやつが入る部なんだ。一応うちの部員になっとけば先生からうるさく言われないからね」
 モフは目を丸くしていた。ははあ、勘違い入部だな。クラオは合点した。たまにいるのだ。本気でマナーを習得できるクラブと思い込む生徒が。
「ドラ先輩はいつもこの部室にいらっしゃるんですか?」
「そうだね」クラオは耳の穴をほじくりながら「放課後はたいていいるな」
「マナーを勉強なさってるんじゃないのですか?」
「いいや」クラオは首を振った。「マナーのことなんか考えていない。僕がいつもこの部屋で考えているのは『クレクレタコラ』や『ナショナルキッド』のことだ」
 モフは予想外の回答にすっかり困惑した様子だった。クラオは言ってやった。
「マナーを知りたいなら、教えてあげよう。ナイフとフォークのもち方だ」クラオは両手をさし出した。「左手でフォークをもち、右手でナイフをもつ。きみが右利きならね」
「もちろん、知ってます」モフは答えた。
「知ってたの?」クラオはヒューッと高い音を鳴らした。「そいつは大したもんだ。モフちゃん、きみはテーブルマナーを知り尽くしている。もうどこの高級ホテルのレストランのテーブルにも座れる」
 モフは礼を言って部室から出て行った。クラオは部室のドアが閉まる音を聞いて、彼女は二度とここへ現れないだろうと思った。
 ところが翌日、いつものごとくクラオがマナー部の部室の隅で「怪獣怪人大百科」をめくっていると、ひらいた本のページの向こうにモフの顔が現れた。ニッコリ笑って手を振っている。
「ドラ先輩」モフが言った。「隣に座っていいですか?」
 クラオは意外そうに下級生の女子を見た。
「いいよ」クラオは本を机に置いて「昨日あんなことを言われて、てっきりうちの部をやめたと思った」
「いいえ」モフは言った。「マナー部をつづけます。楽そうでいいなと思って」
「そう」クラオはうなずいた。「うちの部の良いところは楽なところさ」
 モフはクラオの隣の椅子に腰かけてもってきた本を読み始めた。
「ドラ先輩はなぜマナー部に入ったんですか?」
 モフが話しかけた。
「うちの部員がうちの部にいるのは部活動をやりたくないからだ」クラオは答えた。「部活動をやりたくない理由は、勉強が忙しいか、怠け者か、だ」
「ドラ先輩はどっち?」
「怠け者だ」クラオは答えた。真の理由は別だが、怠け者なのは嘘ではない。
「じゃあ、わたしも怠け者になります」
 モフが言った。
「強いて怠け者にならなくてもいいよ」クラオは言った。「やりたいことがあるならやったほうがいい」
「先輩、おかしい」モフが笑った。
 そんなことを話すうちにクラオとモフは親しくなった。家の方向も一緒だったから部活動からの帰り道、一緒に歩いた。しばらくするうちに付き合い出した。クラオが申し込んだが、なんとなく付き合いを申し込まないと悪いようなムードをモフが醸し出していたのだ。
 二人が交際したのはクラオが学校を卒業するまでの一年間だった。すでにクラオは両親が死んでいて一人暮らしだった。モフを自宅に招いて、一緒に食事をした。それから寝室で行為に及んだ。クラオが成熟した男女関係を結んだのはモフとが唯一だった。
 実はモフの血を吸ったことが二度ある。悪いとは知りつつ、クラオは欲求に負けた。それまでも身体を重ねるたびにモフの身体から漂う血液の匂いにたまらない思いをしていた。血を吸ったのはいずれも行為のあと、ベッドでモフが眠っているあいだだった。
 一度目はモフの二の腕の裏側に八重歯を立てて血を啜った。傷口にワセリンを塗っておいた。二度目は首筋から吸った。首筋の脈から新鮮な血がどくどく湧いてきて、クラオは夢中で吸い込んだ。目立つ箇所なので首筋の傷口には絆創膏を貼った。
 明くる朝、目を覚ましたモフが首の絆創膏に気づいて「あれ?」と声を出した。
「絆創膏がついてる」
 モフが言った。クラオがモフの顔にかがみ込んで、教えた。
「僕が咬んだんだ」クラオはモフの首筋の絆創膏を触って「痛くない?」
「ほとんど痛みはないわ」モフは不思議そうにクラオを見た。「なぜ咬んだの?」
「モフの首筋にキスしていたら、急に肌を咬みたくなって、歯を立てちまったのさ」クラオは言い訳をした。「そしたら血が出た。しばらく絆創膏を押さえておいたから止まったと思うけど」
「わたしが寝ている隙に咬んだのね?」
 モフはいたずらを見つけた人の目つきでクラオを見た。
「ごめんよ。その……」クラオは言葉を探した。「モフの首筋が華奢で、スベスベしててとても色っぽかったもんだからね」
「わたしを傷つけたいの?」
 モフはクラオにすり寄って甘えた。クラオはモフの裸の肩を抱いた。手のひらで髪の毛をモフモフ撫でた。
 モフと付き合っていた時期、彼女の血を吸うのをかろうじて二度でやめたのは賢明だったとクラオは思った。我慢してよかった。もう何度か、繰り返し血を吸ったら、モフは吸血鬼になっていたかもしれない。クラオの母親がそうだったように。
 クラオは学校を出るタイミングでモフと別れた。このままモフと付き合いつづけたら、辛抱できずに血を吸うのがわかっていた。別れるのはつらかった。クラオはモフを愛していた。クラオが別れ話を切り出した時、モフは泣いて、走り去った。クラオは「これでいい」と自分に言い聞かせた。目が涙でにじんで視界がぼやけた。

 そのモフを夜道でおそってしまった。よりによって、彼女を。クラオはクロロフォルムを嗅いで眠っているモフの身体を抱っこした。この身体を一年前まで同じように抱っこしていた。勝手知ったる身体つきだった。
 家のなかへ入ってモフを寝室のベッドに寝かせた。血を吸う気にはなれなかった。モフの血を吸わないために別れたのだ。それがいま、こうして血を吸うためにベッドに寝かしている。バカな話だ。クラオはモフの横に添い寝しかけて、やめた。恋人じゃない女の子に添い寝するなんておこがましい。クラオは寝室から出て階下の居間のソファに座った。
 いつの間にか眠ってしまった。目を覚ますとソファの横にモフがいた。
「クラオさん」モフがきいた。「どうしてわたしをさらったの?」
 クラオは答えられなかった。モフの手を握って「ごめんね」と言った。
「モフだと思わなかった」
 クラオは言った。
「どういう意味?」モフはきいた。「ほかの女の子だと思ったってこと?」
 クラオは黙ってうなずいた。それからモフの目を見て言った。
「だましてごめん。僕はきみが好きでないから別れたんじゃない」
「……」
 モフは無言のままクラオを見た。
「僕は吸血鬼だ」
 クラオはありのままの事実をモフに打ち明けた。

 浴室から出ると、モフは食卓に料理を並べて待っていた。クラオは服を着て食卓についた。
「不思議だな」クラオは言った。「一年前もこの通りに二人で過ごしていた。きみが食事を作ってくれて、一緒に食べて」
「わたし、一年前より料理のレパートリーが増えたのよ?」モフは言った。「家族に時々作ってるんだから」
「モフは彼氏いないの?」
 クラオがきいた。
「いない」モフが答えた。「男の人と付き合ったのはあなたが最後よ」
「なんで彼氏つくらないの?」
「彼氏にしたい人がいないから」モフは答えた。
「一人も?」とクラオ。
「あなた以外には」
 クラオは黙った。卓上にレバニラ炒めとほうれん草のソティが並んでいた。クラオはフォークでそれらをつついた。
「また僕と付き合ったら」クラオは言った。「モフの血を吸うのを我慢できないよ?」
「いいよ」モフは言った。
「なにが?」とクラオ。
「吸っていいよ」モフが言った。「わたしの血」
「モフ。昨日僕が話したことわかってるの?」クラオは言った。「僕がきみの血を吸いつづけたら、きみは吸血鬼になっちまうんだってこと」
「いいよ、吸血鬼になっても」モフは微笑んだ。「わたしの血を吸って。ほかの女の血なんか吸わないで」
 クラオは押し黙った。気が進まない。どうしてこの子はそっちの方向にばかり思い切りがよいのだろうか。
「あなたに血を吸われるために、鉄分豊富な食べ物を作ったんだから」
 クラオは卓上のレバーとほうれん草を眺めた。それからワインを一口ぐびりと飲むと、レバニラ炒めとほうれん草の皿をモフの前に押し寄せた。
「全部モフが食べてよ」
「じゃあ、あなた、また……」
 モフが顔を輝かした。
「モフ」クラオは頭を垂れて言った。「僕と付き合ってください」
 モフは手を伸ばした。クラオの手を握りしめた。モフは答えた。
「はい」




続く。