高貴なる資産家皮蛋氏登場の章

 ピータン氏は自宅の庭に立っていた。庭はわりと広かった。猫の額よりは断然広かった。広く、広々と広がっていた。殺風景でなにもなかった。時計台を除いては。
 しかしいまピータン氏が庭に立ってみて、奇妙なことに気づいた。時計台には時計がある。当たり前だ。庭にいて時刻がわかるようにと思ってしつらえたのだから。ところが時計の文字盤には短針はあるが長針がなかった。おや。ピータン氏は考え込んだ。おかしいな。この時計、はじめから短針だけだったかな。長針は途中で脱落したのだろうか。時計台のそばに針は落ちていなかった。記憶が定かでない。
 そこへ、ピータン家の使用人、執事頭兼執事兼家令兼雑用係のヴァンサカが通りかかった。いまは作業服を着てホウキをもっていた。庭を掃除するところ。
「おお、よいところにきた。ヴァンサカ」ピータン氏は呼び止めた。「この時計台に奇妙なところがある」
「はて。奇妙なところ……?」ヴァンサカは首をかしげた。「ご主人様、いかがなさいましたか? わたくしの目にはどこもおかしく見えませんが」
「いや」ピータン氏は手にあごをのせて「この時計、文字盤に長針がないのだ。短針しかない。いま九時すぎなのは短針でわかるが、九時何分だか一向にわからん」
「お言葉ですが、ご主人様」ヴァンサカは慇懃な調子で言った。「時間だけわかれば何分かなんて細かいことはよろしいのではございませんか?」
「いや、それでは困る」ピータン氏は顔をしかめた。「資産家たるもの、時には分刻みのスケジュールで行動しなくてはならんことがある。私はいまのところそんなスケジュールの日がないが、近い将来舞い込まないとも限らん。この時計では遅刻する恐れがある。ヴァンサカ、長針はどこへ失踪を企てたのだ?」
「失踪などしておりませぬ」ヴァンサカは答えた。「長針はもともと付いておりません」
「もともと付いていないだと?」
 ピータン氏は大きな声を出した。
「はい、ご主人様」ヴァンサカはうなずいた。「この時計台が庭にやってきた日からですね、そもそものはじめより、文字盤に長針は影も落としていなかったのです。おじいさんの生まれた朝にやってきた時からずっと……」
「それは大きなじいさんの心臓の唄であろう」ピータン氏は言った。「はじめから長針がなかった? そんな時計があるものか。欠陥品もいいところだぞ?」
「いいえ、ご主人様。長針などないほうが作業が簡便なのでして」とヴァンサカ。
 ピータン氏は首をかしげた。するとヴァンサカはホウキをその場に置いて時計台に近寄った。ヴァンサカは時計台の裏側に回った。そしてえっちらおっちらハシゴをよじ登って、時計台の時計の裏側にたどりついた。ヴァンサカはそこでなにやらいじくった。
 ピータン氏は時計の文字盤を見た。するといままで九時を指していた短針が、クルッと回って十一時を指した。ピータン氏はポカンとその変化を眺めていた。
「この時計はめんどくさい代物でして」ヴァンサカはハシゴを降りて言った。「一時間ごとにこのわたくしめがよじ登って短針をうごかしてやらねばならないのです」
「なんと。ヴァンサカ、お前がいちいち手で回しているのか?」
「そうでございます」
「ネジを巻いてうごかすゼンマイ式でさえないのか?」
「そうでございます」
 ヴァンサカは時計台の裏側に立つと、主人にくるように手ぶりで促した。ピータン氏が好奇心から時計台の後ろに近づくと、ベニヤ板を貼りつけた時計台の本体の後ろは金属の棒を組んだだけの張りぼてになっていた。その傍らにハシゴがあった。
「予算不足でございまして」ヴァンサカが言った。「このような経済時計台になりました」
「時計台というが」ピータン氏は渋い顔つき。「これでは時計の用を足していないではないか」
「ご主人様。では長針をとり付けましょうか? もちろん経費削減のために動力は人力で……」
「やめとこう」ピータン氏は答えた。
「時に、ご主人様」ヴァンサカは話題を変えた。「奥様はいつお屋敷にお戻りで?」
 使用人にそうきかれてピータン氏は腕組みした。
「もうそろそろ戻ってくるだろう」ピータン氏は答えた。「妻は滋養と強壮のために妻の実家に行っている。滋養により、近々強壮になって帰ってくるだろう」
「ご実家に戻られていらっしゃるんですか?」とヴァンサカ。
「まあな。滋養強壮の結果、相当にたくましくなって帰ってくるだろう」
 ピータン氏はそう言って口ごもった。待てよ。そんなに強くなったら夫婦喧嘩になった時、とてつもないダメージを食らうかもしれんな。ピータン氏は身震いをひとつし、コホンと咳払いした。
 ヴァンサカは再びホウキを手にし、地面を掃き始めた。主人の心知らず、ニコニコして主人に言った。
「早く奥様がお帰りになるといいですね。ご主人様」
 ピータン氏は「妻は帰ってくるのがゆっくりになるだろう」と言った。「えっ?」ヴァンサカがきき返した。「いや」とピータン氏。「あれは、実家で時間を忘れて静養すればいいのだ。急かしてはいかん」
 ホウキをもって突っ立ったヴァンサカを庭に残してピータン氏は屋敷に戻って行った。


  列車に乗るピータン夫人の章

 その婦人は列車の客車に乗っていた。列車は空いていた。シートに座る婦人は三十代後半といったところ。丸顔で、ややぽっちゃりした体型。車窓の下にある台に便箋紙をのせてペンを走らせていた。
「あなた、暑くはないですか」婦人はブツブツ呟きながら字を書いた。「日ごと暑さがつのります。なにこれ。どこかで聞いたことあるじゃない。パクリは良くないわ。それに第一、いまは暑くなんかないじゃないの……」
 婦人はペンを止めて思案した。車窓のそとの景色を眺めた。それからまたブツブツ呟き出した。口に出さないと文章を思いつかないらしい。
「いまはあなたと離れてますが、いつか家へ戻ります。いつか……また……いつ……どうしようかしら。これだとほんとに戻ることになっちゃう」婦人は考えた。「あの人に甘い顔するのは良くないわ。いつまで家にいつまで帰ってこないのかって、やきもきさせなくちゃ。いつか戻りますが、いつかはまだ決まっていません。うん、これでいいわ。決まっていないことは教えられないです。あなたとのキスもしばらくお預けです。うん、うん、いい感じ」
 婦人は自分が書いた文面に悦に入った様子で満面の笑みを浮かべた。
 車両のドアがあいて車内販売のワゴンがやってきた。販売員の女性が声を出した。
「えー、おせんべにキャラメル、プリンにゼリーはいかがですか」販売員は言った。「あとビールにワイン、ソーダにただの水はいかがですか」
 婦人が販売員を呼び止めた。
「おせんべひとつちょうだい」
「プリンかゼリーはいかがですか?」と販売員。
「じゃあおせんべにしようかな」と婦人。
「ビールはいかがですか?」と販売員。「ただの水はいかがですか?」
「じゃあおせんべにしようっと」と婦人。
「なにがじゃあ、よ」販売員は言いながらおせんべを婦人に渡した。婦人は代金を払った。
「おせんべにキャラメル、プリンにゼリーは……」
 ワゴンを押して販売員が移動を再開すると婦人がまた呼び止めた。
「ちょっと待って」
 販売員はワゴンを後退させた。
「娘にお土産を買ってあげたいの」
「お土産にプリンかゼリー、ビールかただの水はいかがですか?」
「じゃあ、おせんべにしとくわ」と婦人。
「だからそのじゃあってなんだよ」と言いながら販売員はおせんべを丁寧に婦人に渡した。婦人は代金を払った。
 販売員とワゴンが去ると婦人は再び手紙に視線を落とした。
「ミウにお土産をもって行きます。おせん……お洗濯はちゃんとやってますか。あまり家事をヴァンサカに押しつけてはいけませんよ。ミウももう十六なんですからね。早くお嫁に行く先を見つけてしまいなさい。お母様は十九でお父様と結婚したんですよ。でもお父様にはお土産はありません。残念がるように伝えてちょうだい。残念でした。またどうぞ」
 婦人はおせんべを袋からとり出すとバリバリ音を立てて食べた。


  ロンブロゾーの章

 その少女はベッドに寝ていた。寝ているが眠っていなかった。枕元に人が立つ気配がした。それは知っていた。少女は診察を受けているのだ。
「きみの名は?」
 枕元に立つ人物がきいた。目をつむっているので少女には姿が見えない。声からして中年男性のように感じる。
「ミウです」少女が答えた。
「わしはロンブロゾー教授」枕元の人物が言った。「きみも知る通り、心理学の大家だ。第一人者、スペシャリスト、オーソリティといってもよい。わしはきっときみを治すだろう」
 少女は寝ながらうなずいた。高名な医師だからこそ、診てもらっているのだ。
「きみの連想から診断をする」ロンブロゾーは言った。「学校で気になる場所はどこかな?」
 少女ミウは質問を聞いて返答に迷った。いくつかの空間や物がかわるがわる浮かんだ。やがてある場所が浮上してきた。
「階段の踊場です」
 ミウは答えた。
「何階のかね?」とロンブロゾー。
「三階。いえ」ミウは答えた。「屋上と三階の中間の踊場です」
「そこでなにをした?」
「え……」
 ミウは躊躇した。
 先輩に階段の踊場で抱きしめられたのだ。昨日のことだった。男の人にそんなことをされたのは生まれてはじめてだった。
 ナイキ先輩のことは気になっていた。知らず知らずに自分の気持ちをアピールしていたかもしれない。だが屋上へつづく階段の踊場に誘い出されて、そこで抱きしめられるとは思っていなかった。「好きだよ。ミウちゃん」先輩のそう言う声が聞こえたのは幻聴ではなかった。だがミウはナイキ先輩に抱かれて怖くなった。思わず「やめて」と言ってしまった。
「やめてくれたの?」
 ロンブロゾーがきいた。変だなとミウは思った。まだなにも事情を話していないはずだ。気のせいか、ロンブロゾー教授の声が父親の声に似ていた。気のせいだろう。
「離してくれました」ミウは答えた。「わたし、すぐに逃げてしまって……」
「ミウは本当は抱かれていたかったんだろう?」ロンブロゾーが言った。「抱かれるだけでなく、もっとやらしいことをされたかったんだろう?」
 ロンブロゾーの声がいよいよ父親そっくりに聞こえた。まさか、この人は……
 ミウは目をあけた。目を覚ました。家の寝室でベッドに寝ていた。夢だったのか。父親のピータン氏の声がしていた。
「おーい、ミウ」ピータン氏は娘の寝室のドアを叩いて「いないのかね?」
「はい、お父様。どうぞ」
 父親が入ってきた。
「ミウ。お母様から手紙が届いたよ」
「お父様ありがとう」
 ミウはぺこりとお辞儀して手紙を受けとった。父親が寝室から去ると、さっきの夢と昨日の現実で彼女を抱擁した先輩の感触を思い出して味わった。思い出してみるのはこれで数度目だった。



後編へ
続く。