滋養強壮の章

 ピータン夫人は実家にいた。片田舎の古い家で、母親が庭仕事をしていた。春ともなればモクレンが咲き、名前の知らない草花が咲き乱れる。母親はもうトシだから、ゆっくり庭を丹精する。
 ピータン夫人は庭仕事に関心なさそうな顔つきで庭に出た。焼けつくほどの陽射しではないが母親は麦藁帽をかぶり、首に手拭いを巻いて作業している。ピータン夫人が歩いてくると母親は言った。
「ミラ、あんたも庭仕事を手伝ってくれるのかい?」
 きかれてピータン夫人は首を振った。
「いいえ」
「じゃあなにしてるの?」
「庭に立っているのよ」ピータン夫人は答えた。「座ってるように見える?」
 母親はかぶりを振って作業に戻った。
「むかしから変わった子だと思ってたけれど、変わってるところはぜんぜん変わりやしない」
 母親が植込みにかがんでブツブツ呟くと娘のピータン夫人が口をひらいた。
「いまなにか言った?」
「いいや。なにも」母親は答えた。「あんたも旦那さんをほったらかしてこっちでブラブラしてていいの? 旦那さんとミウちゃん、不便してるんじゃない?」
「大丈夫よ」ピータン夫人は答えた。「ミウはもう高等学校だし、見かけよりしっかりしてるもの。それに執事のヴァンサカがいるから家のことは心配ないわ」
「家のことを人に押しつけてるだけじゃないの。あんた」母親は呆れた。「ピータンさんとミウちゃんが気の毒だわ。ブラブラしてないで、うちにいるのなら庭仕事でも手伝ってちょうだいよ?」
「いやよ」とピータン夫人。「やったことないもの」
 母親は肩をすぼめた。
「ちっとも難しくないから、少しぐらい手伝ってよ。ホラ、そこのモクレンを……」
「モクレン?」ピータン夫人は庭の草木をキョロキョロ見回した。「どれがモクレン?」
「その木に決まってるでしょ。ミラ、モクレンも知らないの?」
「教わったことないもの。あ、そうだ。わたしミウを誘ってドジョウ池へ行かなくちゃいけないわ」
「ドジョウ池?」と母親。「どこだい? なにをしに行くの?」
「ピータンの屋敷の近所にあるのよ」ピータン夫人は答えた。「池のはたでヘレヘレしに行くの」
「ヘレヘレってなに?」
 母親にきかれてピータン夫人はニンマリと微笑した。
「なんだっていいじゃない」
「旦那さんの家へ戻るのかい?」
 ピータン夫人は首を振った。
「あの人にはまだ会わないわ」ピータン夫人は言った。「ミウを誘い出すだけ」
 ピータン夫人が口にしたヘレヘレの意味はだれにも永遠にわからない。


  ……の章

 ピータン氏は自宅のなかを歩いていた。一人娘のミウがいないことに気づいた。使用人のヴァンサカが廊下をやってくる。今日はきちんと執事服を着ていた。ピータン氏はヴァンサカに話しかけた。
「ミウがいないようだが、どこへ出かけたか知ってるかね?」
「なんでも奥様とドジョウ池で落ち合うとおっしゃっておりました」ヴァンサカが答えた。
「ドジョウ池?」とピータン氏。「そんなところへ行ってなにをするんだ?」
「なんでも奥様とヘレヘレするんだそうでございます」
「ヘレヘレってなんだ?」
「わたくしにはわかりません」
「……妻はこっちのほうに帰ってきているのかね?」
「どうもそのようです」ヴァンサカは主人の顔を見た。「ご主人様。奥様とお会いになりたいですか?」
「いや……ぜひともってわけではない」ピータン氏は言葉を濁して「でも、ミラのやつ、こっちのほうにきてるならわが家に戻ってもよさそうなものだがな」
「奥様の滋養強壮はおすみになられたのでしょうか」
「さあ、どうだろう。しかし池なんかへ行くなんて暇人くさいな」
「お嬢様と奥様は池に行ってヘレヘレするのです。断じて暇人ではございません」
「だから、そのヘレヘレってなんだ?」
「わかりません」
「……」
「……」
 ヴァンサカは急に思い出したらしく手をひとつ叩いた。
「そういえば、お嬢様はドジョウ池でヘレヘレしたあと、奥様と別れて男子とデートなさるとおっしゃってましたな」
「ふうん。そう」ピータン氏は気のなさそうな返事をしてからやっと聞いたことに気づいて「なんだと? ミウが男とデートするだと?」
「男子とおっしゃるからには、男でしょうな」とヴァンサカ。「女ではないとわたくしは思います」
「ただごとではない」ピータン氏はうろたえた。「ミウに男が……いや、どんな仲なのか、どこまで進んでいるのかわからないから心配しても仕方ないが……」
「男女の一線を越えてしまっていることも考えられますな」とヴァンサカ。
「冗談じゃないっ」ピータン氏はかぶりを振って叫んだ。「わしのミウが……ミウには早すぎる。まだ子供じゃないか」
「お嬢様はいつまでも子供のままではございません」ヴァンサカが言った。「もう十六歳におなりですから。お若いことはお若いが、ぼちぼち子供を産める年頃です」
「身体は大人同然でも、あいつの頭のなかはまだ子供だ」ピータン氏は息巻いた。「いやらしい男にかどわかされて妊娠なんかしたら……苦労するのは女だってのに」
「してるかもしれませんなあ」
 ヴァンサカの言葉にピータン氏はまなじりを上げて、
「してるって、なにをしてるんだ?」
「いえ、それはわかりません」
「……」
「ドジョウ様はお嬢池でヘレヘレしたあと、学校の先輩であるナイキ君とデートしてホテルへ直行。それがドジョウ様の本日のスケジュールでございます」
 ヴァンサカは胸ポケットからとり出したメモ帳をひらいて言った。
「ちょ、ちょっと待て」ピータン氏は思わずどもった。「ツッコミどころがいっぱいありすぎだ。ドジョウ様がお嬢池でヘレヘレするのじゃなくて、お嬢様がドジョウ池でヘレヘレするんだろ?」
「はい」ヴァンサカがうなずいた。「わたくし、そう申し上げませんでしたか?」
「ミウはドジョウ池を去ってから男とホテルへ直行するのかね?」
「はい」とヴァンサカ。「メモ帳にそう書いてあります」
「それ、本当なのか?」
「はい。本当にそう書いてあります」
「じゃなくて」ピータン氏は苛々して「ホテルへ直行するのは本当なのかときいてるんだ」
「さあ、わかりません」
 ヴァンサカは首を振った。
「じゃあ、なんでメモ帳に書いたんだ?」
「お嬢様からデートすると聞かされまして」ヴァンサカは答えた。「ナイキ先輩を憎からず想っておられるお嬢様のことですから、てっきりホテルへ行くものと思ったのでしょう」
「なんだ。お前の想像か」ピータン氏はホッとした。「それを早く言え」
「ナイキ君はなかなかの好青年ですから、わたくしはお嬢様のご伴侶にはふさわしい方かと思いますが……」
「だからなんで執事のお前がミウの彼氏のことまでよく知ってるんだ?」
「いえ、よくは知りません。血液型も星座もまだ伺っておりませんし」
「そんなこと知る必要はなかろう」
「ご主人様、なにをおっしゃいます?」ヴァンサカは真顔になって「血液型と星座を知ることはこの上なく大事でございます」
「そういうものかな」
「いまごろ奥様とお嬢様はドジョウ池でヘレヘレしておられるところでございましょう。もう間もなくヘレヘレするのも終わりでございましょう」
「そのヘレヘレってのはなんなんだ?」
「まるでわかりません」
「……」
「……」


  元気が出る章

 ミウはドジョウ池で母親のピータン夫人と落ち合ってヘレヘレしてから、母親と別れて駅前の喫茶店へ出向いた。そこでナイキ先輩と会って話した。ナイキ先輩はこないだ階段の踊場でいきなりミウを抱きしめたことをわびた。
「ごめんなさい。ミウちゃん」ナイキ先輩は謝った。「もう断りなくやったりしないから。許してほしい」
「許しますよ」ミウは言った。「許してるからわたし先輩と付き合うことにしたの」
「ありがとう」ナイキ先輩は言った。「優しいね。ミウちゃんは」
「わたし、先輩に抱きしめられて、びっくりしたけど、ほんとはちょっと嬉しかったの」
 ミウは顔を赤くして言った。
「これから、時々ミウちゃんのこと抱きしめてもいいかな?」
 ナイキ先輩がきいた。ミウは黙ってうなずいた。
 これから自分はナイキ先輩にちょいちょい抱きしめられるだろう。抱きしめられるうちにキスするようにもなるだろう。抱きしめられてキスするうちに、互いの下半身を交わらせてこすり合う、子供をつくることもするようになるだろう。そうなったら近いうちに自分はナイキ先輩のお嫁になり夫婦になるだろう。
 ミウはそう考えて幸せになった。ミウは元気が出た。モリモリ元気が出たミウは屋敷まで歩いて帰った。


  おせんべ風のおせんべの章

 ミウが帰宅すると母親が先に帰ってきていた。
「お母様、うちに戻ることにしたの?」
 ミウがきいた。
「ほかにやることもないしね」
「ミラはわが家に帰る以外やることがないのかね?」ピータン氏が妻にきいた。
「うん。そうよ」
「ミラはうちにいるのがいちばんなのであろう」ピータン氏は言った。「なんでまた実家で滋養強壮しようと思ったのかね?」
「なんとなくそんな気分だったの」ピータン夫人が答えた。「でも実家は退屈。お母さんに庭仕事させられそうになるし。あなたのそばにいるのが良いってつくづくわかったわ」
 ピータン夫人は椅子から立ち上がると、ソファに座っている夫に近づき、おもむろにピータン氏の膝の上にお尻をのせた。
「ちょっと……」娘のミウが抗議した。「お母様、わたしがいる前で堂々とお父様といちゃつかないでよ?」
「いいじゃないの。お母様とお父様は夫婦なんだから」ピータン夫人は夫の手を自分の太ももに当てさせた。「ミウももうじき男の人とこうするようになるわ」
「いかん、いかん」ピータン氏は首を振った。「断じてミウはまだ早いぞ」
「いいじゃないの、あなた」ピータン夫人は夫に言った。「わたしがあなたのお嫁になったのも十九の時よ? ミウにだって彼氏がいるんだから」
「付き合うのは百歩譲って許すが、一線を越えるのはまだまだ早い」ピータン氏は渋い顔をした。
「あ、そうだ。忘れてた」
 ピータン夫人は夫の膝から降りて立つと、カバンに近づいた。
「ミウにお土産があるんだった」
 ピータン夫人はカバンのなかから袋に入ったおせんべをとり出し、娘に「はい」と言って手渡した。
「お母様、ありがとう」ミウが言った。
「わしにはないのかね?」
 ピータン氏がきいた。
「あなたにはないのよ」ピータン夫人は再び夫の膝の上にのって「わたしで我慢してよ」
 ピータン夫人は夫の首根っこを抱きしめた。それを見てミウは再び抗議した。
「だから、娘の目の前でいちゃいちゃしないでって言ってるんです」
「いいではないか」とピータン氏。「ミウにはおせんべ風のお土産があるのだから」
「まあね」
 ミウは袋をあけておせんべ風のおせんべをバリバリ食べた。