少年スクイドは家の食卓で目玉焼きをつついている。目玉焼きには塩コショウをたっぷりかけてある。黄身は半熟。黄身だけを口に運ぼうとしてフォークからツルンと落とす。黄身は皿に落ちてはぜる。ドロリと皿を汚す。
「あーあ、黄身が割れちゃった」スクイドは残念そうに言う。「でもこうすれば食べられるんだもんね」
 スクイドはパンをちぎって皿にぶちまけた卵の黄身をつけて食べる。黄身のついたパンを口に運ぶ。美味い。
 スクイドの家の食事部屋の窓から隣家の食事部屋の窓が見える。隣家の少女が少年の家の食事部屋の食卓とそっくりな食卓に向かって腰かけている。少女は牛乳が入ったコップを手にもち、ゴクゴク飲む。
「男の子の美味しいミルク」少女はコップを卓上に置いて言う。「わたしたちはゴクゴク飲んだ」
 窓から見えるのでスクイドは少女のそのセリフを聞いて聞き捨てならじと窓から顔を出す。スクイドは少女を呼ぶ。
「ねえ、いま言ったの本当?」
 スクイドが質問すると少女はニヤニヤして胸を反らす。
「さあ、どうかしら」少女はまたコップのなかの牛乳を飲む。「飲んでるかも。でもあんた以外の男の子のミルクかも」
「そんな。そんなこと言うなよ」スクイドは急に哀しげな顔つき。「ぼくのミルクだけ飲んでおくれよ。ぼくはきみを愛しているんだから」
 少女は窓のほうへ向き直る。
「スクイド。あたしを愛しているのなら、太陽と月レースで優勝してちょうだい」少女は言う。「レースに優勝したらあんたのミルクを飲んであげる」
「本当かい?」スクイドは嬉しそうに顔をほころばせて「ぼく最近ミルクが溜まってしょうがないんだ。なぜならきみがヤらせてくれないからだ」
「いやらしい。でもいいわ。優勝したらヤらせてあげる」
「イヤッホー」
 スクイドは歓喜の叫び声を上げて窓から飛び出す。隣家の窓から隣家の食事部屋にジャンプして入り込む。食卓に向かい座っている少女の身体を抱きしめる。
「こらこら」少女はたしなめる。「まだダメよ。優勝したら、よ」
「わかっているよ」スクイドは抱きしめた手を離す。「でもどのみちぼくらはヤることになるんだ。ぼくはきっと優勝するよ」
 少女の肩に両手をのせてスクイドは宣誓する。少女の母親が食卓を挟んだ向かいに座っている。
「ぼくは必ずや太陽と月レースで優勝者になります」スクイドは言う。「そして優勝者になった暁、お嬢さんとヤッてぼくのミルクをゴクゴク飲んでもらい嫁にもらいます」
「あら、そう」少女の母親が笑って言う。「頑張ってね」
「頑張ります」スクイドは少女の肩から右手を離し、窓のそとのお日様を高く指さす。「あの太陽を目指してぼくは飛ぶんだ。鳥になるんだ。だれよりも速い鳥に」
 窓のそとを薄汚れた風体の男が通りかかる。スクイドたちが家の食事部屋にいるのを見て声をかける。
「ウンコはないですか?」男は背中にポリバケツを背負っている。ポリバケツは、とても臭い。「ウンコかオシッコありませんか? 無料で引きとりますぜ」
「汚穢屋さんね」少女の母親が言う。「はい、ありますよ。引きとってくれます?」
 男は手揉みしながら「ありがたいこってす。どうかお願いします」と言う。
 少女の母親は食事部屋の横の便所からおまるを運んでくる。
「どっさりあるのよ。ざっと三日分」
 少女の母親はおまるの陶製の蓋をあけて中身を見せる。茶色い大便に混じって黄色い小便が溜まっている。
「オシッコはないんですかい?」汚穢屋はおまるを受けとってポリバケツにぶちまけながら「小便壺はありませんか?」
「うちは分けて使ってないの」
 すると少女がもじもじして言う。
「さっきミルク飲んだせいかな。お腹ゴロゴロしてきちゃった」少女はお腹を押さえて「ウンコ出そう」
「じゃあ、じかにどうぞ」
 汚穢屋はポリバケツを窓のへりにくっつける。少女はスカートをめくって下着を脱ぐ。窓からお尻を出すと、汚穢屋のポリバケツに思い切り排便する。ブリブリ音がしている。タール状の便が少女のお尻から噴出する。スクイドは窓から覗き込んで少女のお尻を見る。
「いっぱい出たねえ」
 スクイドはそう言い、腕を回して少女のお尻を支えると濡らした紙で少女のお尻の穴を拭いてやる。汚穢屋はポリバケツに蓋をしてお辞儀して去る。家の角を曲がると畑があり、農夫が鋤を担いでいる。汚穢屋は農夫に話しかける。
「ウンコとオシッコいらんかね」
「もらっとこう」農夫は答える。「肥やしが残り少ないんでね。全部もらおう。銀貨でいいかい?」
「はい、大助かりです」
 スクイドは少女の家を出て隣の自宅に帰る。階段を駆けのぼって屋根裏部屋へ上がる。屋根裏部屋には翼を生やした機体がある。機体は細く、スクイド一人がまたげるだけの棒で、途中で幅が変わるシーソーといったところ。機体の前面にはプロペラがある。
 スクイドは屋根裏部屋の壁についたハンドルをグルグル回す。すると屋根の頂点の三角形に隙間ができる。屋根はゆっくりとひらき始める。すっかり空が露わになるとスクイドは機体にまたがる。スイッチを押す。プロペラが唸り出す。スクイドはまたがった機体についたハンドルをしっかり握り、屋根裏部屋の壁を蹴る。すると機体が浮上する。
 スクイドは空へ飛び出す。
 家のそばの畑のへりで何人かの人たちが集まって話している。飛行するスクイドは上空からその様子を見下ろしている。ブーンとプロペラが唸る。スクイドは翼の角度を変えて下降する。
 着地はいつも難しい。機体の向きを整え、プロペラの威力を弱めると着陸体勢に入る。機体は畑のへりに近い原っぱに着陸する。スクイドがまたがった機体の下部についた車輪が地面をガリガリこする。
 畑のへりにいた人たちがみんなスクイドを見る。
「スクイド、太陽と月レースに出るの?」
「ああ、出るよ」スクイドは答える。「出るもなにもぼくは優勝候補だよ」
「まさか」一人が言う。「優勝候補は大工のリリエンタールだろ」
「自転車屋のライト兄弟も手ごわいぞ」
 スクイドは自分など下馬評に挙げられていないことに憤慨する。
 すると、原っぱの一隅で奇妙な姿勢で倒れている少年がいるのを見つける。その少年は身体にぴったりした小姓らしき服装で足のところで裾をとめたズボンをはいている。だが少年の足は上を向き、頭は地面に向いている。すなわち逆立ちの姿勢で両腕を大の字なりにひらき、胴体を細長い棒で支えている。
 よく見ればその棒はスクイドがまたがっている機体と同じ形をしている。
「なにをしてるんだ?」スクイドが不思議に思って少年にきく。「逆立ちの練習かい?」
 逆さまになった少年は逆さまのままで答える。
「これは明日のスクイドだよ」
「どういうこと?」
「明日の太陽と月レースでスクイドはこうなるってこと」少年は言う。「空から機体ごと墜落して哀れお陀仏、土に還る」
 スクイドは腹を立てる。原っぱのあちこちで少年と同じように機体にまたがって逆立ちしている人がいる。中年のおじさんが逆立ちしている。機体に幟を立てている。幟には「あゝ哀れリリエンタール」と書いてある。別の一人はやはり同じ体勢で倒立しながら「ライト兄弟の最期」と書いた幟を立てている。
 こいつらはレースの予想屋らしい。墜落を予想されているのが自分だけでないことにスクイドはひとまずホッとする。元気が湧いてくる。スクイドはスイッチを押してプロペラを回す。浮き上がった機体を地面を蹴って発進させる。スクイドは飛び上がる。スクイドは畑をぐるりとめぐって家に帰る。
 機体から降りて屋根裏部屋の壁についたハンドルをグルグル回す。屋根がうごいて塞がってくる。空が狭まる。なおもハンドルを回す。屋根がすっかり頭上を覆い隠し、空が見えなくなる。
 スクイドは寝室で眠りにつく。レースに優勝して隣家の少女とヤる夢を見る。快感のあまりに膨らんだ器官がビクビクうごいて、朝、下着の前を汚す。スクイドは湿った下着をはき替えながら、この液体が少女への熱い思いだと考えてじーんとする。
 食事部屋へ降りて窓から隣家を眺める。少女が隣家の食事部屋で牛乳を飲んでいる。少女は牛乳の入ったコップを食卓に置いて言う。
「男の子の美味しいミルク、わたしたちはゴクゴク飲んだ」
 スクイドは窓から身を乗り出して少女に挨拶する。
「おはよう。今日は待ちに待った太陽と月レースの日だよ」
「おはよう。スクイド」少女も挨拶する。「いよいよ今日がレースね。緊張しないでね」
「緊張するもんか。ぼくは余裕で優勝するよ」スクイドは胸を張って「優勝したら約束通りヤらせておくれよ。それからぼくのミルクもゴクゴク飲んでおくれよ」
「もしスクイドが優勝したら、ヤらせてあげるわ。あんたのミルクも飲んであげる」
「よし。ぼく絶対優勝するよ」
 スクイドは興奮して屋根裏部屋へ上がる。壁のハンドルをグルグル回す。屋根がひらく。スクイドは機体にまたがりスイッチを押す。プロペラが回転して機体が浮く。部屋の壁を蹴って真上の空へまっしぐらに飛び上がる。
 家のそばの畑のへりにすでにレースの出場者が集まっている。スクイドは畑の上空を旋回するとゆっくりレース会場である畑のへりに着陸する。
「リリエンタール、リリエンタール。リリエンタールが堅いよ」
「ライト兄弟、なんたってライト兄弟だよ」
 予想屋たちが声を張り上げている。
「大穴、スクイドの坊やはいかがかな。オッズの倍率最高だよ」
 予想屋の一人がスクイドの名を呼ぶ。どうやらスクイドはレースで人気最下位らしい。スクイドはそんな予想を聞いても気を挫けずに鼻息を荒くする。なんとしても優勝するんだ。この戦いは恋のための戦いなんだ。
「位置について」審判が言う。「用意」
 レースする操縦士はみんなプロペラのスイッチを押す。
 審判がスタートの合図のピストルを空に向けて撃つ。
 みんな一斉に飛び立つ。スクイドも飛び立つがほかの機より少しだけ遅れる。遅れをとり戻そうと焦燥する。いちばん先頭を飛ぶのは人気のリリエンタール、次がライト兄弟だ。スクイドは風を切り、むしろ風になって速度を上げてゆく。
 全機が上空でクルリと旋回する。旋回しないといけない決まりになっている。スクイドも遅れまじと旋回する。それから下降、ついで上昇。スクイドは下降で速度を増してほかの機を追い抜く。上昇でも速さを保ったままほかの機に追いつかせない。
 鳥だ、本物の鳥だ。敵をみなぶっちぎったことにスクイドは興奮している。鼻血が出そうになる。機体のエンジンは心地よく唸りを上げ、絶好調だ。地上に描かれたゴールラインが見えてきた。着陸していちばん先にゴールラインを越えた者が優勝となる。スクイドは機体を下降させる。
 気になってチラッと後方を振り返る。リリエンタールがぴったりスクイド機にくっついてくる。クソ、しぶといな。スクイドは舌打ちする。もうゴールだ。スクイドは着陸に備え減速する。だがあまり速度を落とすと土壇場でリリエンタールに抜かれる恐れがある。
 スクイドは賭けに出る。減速せずに地上に突っ込む。機体を着陸体勢にもち込む。車輪がガリガリと地面をこすってゴールラインをザッと割り込むはずだ。
 スクイド機は地面に車輪の一部がつく瞬間に機体がもち上がる。つんのめって前方にでんぐり返る。勢いよく宙返りして逆さまになり、機体はゴールラインの手前で転覆する。操縦士のスクイドを大地に放り出す。
 スクイドは機体から離れたところでうつ伏せに倒れている。もうピクリともうごかない。体内の臓器があちこち破れ、骨がバラバラになっている。心臓の鼓動が徐々に弱まってゆく。
 スクイドは虫の息で思う。ぼくはこの星につくられたんだな。だからこの星に引っぱられて終わるんだ。ぼくはこの星の息子だ。土の匂いがスクイドの鼻に入ってくる。残る力を振りしぼって匂いを嗅ぐ。