小説を書かずにこんなことばかり書いている。
 小谷野敦が編んだアンソロジー本に『童貞小説集』というのがあり、昔読んだ作品もあったが、パラパラ読んでみた。主人公が全員童貞の男性という異色のアンソロジー。ただ、収録作は抄録が多い。武者小路実篤の「お目出度き人」などはバッサバッサ切り落として筋だけ追えるようにしてある。
 いずれも童貞の男性が女性とヤりたくて懊悩する話を扱っている。ヤりたい以前の現実的な懊悩がまずある。いかにして好きな女性と仲良くなるか、だ。このアンソロジーに収められた諸作の主人公はみな童貞だからして、女性を口説いたり近づいたりするのが苦手である。意中の女性に不器用にアプローチするのが笑える。
 童貞のキャラクターたちを笑う僕が口説き上手なわけでは決してない。僕の口説きの力は薄弱である。本当はあまり口説きたくもない。口説く行為は滑稽であるからおもしろいとは思うが。
 武者小路実篤の「お目出度き人」。主人公は二十代後半の童貞である。武者小路実篤本人がそうで、実体験談を小説化したものかは定かでない。実話を素材にしたものだとしたら、意中の親類の女性を親友の志賀直哉にかっさらわれたせいで童貞時代が長引いたのだろうか。
 主人公は近所に住む鶴という十代の女の子が好きになる。まだ女学校に通っている。鶴の年齢は書いていないが、文脈を読む限り、十六、七ではなかろうか。主人公は知人のツテに頼って鶴に求婚するが、断られる。女学校を卒業して兄が結婚してからじゃないとまだ結婚は考えられないとの返事。
 主人公は鶴をあきらめられずに二度三度と求婚する。いずれも知人を介しての申込み。それが当時の習慣だったのか知らないが、お見合いもせずに結婚を申し込んでいる。主人公は鶴に再三断られる。
 求婚する前に鶴と仲良くなる努力をすればいいのにと思うが、しないのが不思議である。そこが童貞の童貞たるゆえんかもしれない。好きな相手に気に入られずに結婚できるなんて、どうして思えるのだろう。
 結末はネタバラししないでおくが、「お目出度き人」の主人公は鶴を手に入れたくて悩みつづける。その懊悩ぶりは気の毒なぐらいだが、なぜいきなり結婚したいと思うのかがやはり解せない。

 ここからは男女関係についての私見になる。
 男性が性欲から女性を手に入れたいと思い、あれこれ画策したり、場合によっては有力な立場を利用し女性にセクハラして不祥事をやらかすケースがある。セクハラの内容は様々だろうが、なかにはレイプに近いものもあるだろう。
 電車など公共交通機関のなかで女性に痴漢を働く男性もあとを絶たない。
 世の多くの男性は男女の性関係、性交渉を男性側の欲求でのみ捉えがちだ。「お目出度き人」の主人公もまさにそうで、タイトル通りおめでたい男といえる。
 異性の欲求に立って男女関係を認識するのは確かに難しい。僕も女性の欲求に立つことはほとんどできないので、想像するしかない。
 だがこういうことはいえる。
 まず性欲の正体は生殖欲であること。人間が自然から与えられたのは同じ生物種の人間を増やすために生殖を促されていることだ。ところが多くの人々は生殖のためでなく、快楽のために性交渉している。女性が妊娠しないように避妊することが多い。
 子供をつくらない目的でヤるのは本末転倒である。性交渉が快感を伴うのは快感で性交渉する頻度を高めて生殖の機会を増やす自然の狡知であるのに、子供ができないように工夫しながら性交渉している。それが常態化している時点で、人類は自然からかけ離れた特殊な価値観をもっているというべきである。
 僕はなにも倫理的見地からカトリック教徒のような主張をしたいのではない。
 生殖を促すために自然から与えられた欲求である性欲は、その本性からして、女性のためにある。子供を産むのは女性だからである。したがって性交渉も女性のためにやることである。
 そのように考えざるをえない。男性は性交渉を通じてスファチム(イタリア語※)を出す。それが女性の胎内で卵子と結合すれば赤ちゃんが生まれる。
  ※日本語や英語、ラテン語のよく知られた語を記すとブログで閲覧禁止になる恐れがあるため。
 しかしスファチムを出すだけで、男性はそれ以外の機能をもたない。せいぜい女性に快感を与えるように努めるのが関の山だ。それも女性のために行う行動である。
 だとしたら、男女の性関係はもっぱら女性が中心になって成り立つことで、男性は女性のためにそうするだけといえる。
 男性が女性に言い寄って口説くのは女性にとってだけ必要な行動であり、女性がその気にならなければ男性はおとなしく引っ込むしかない。女性は駆引きが好きだから、拒むフリをしてる場合もある。その場合はひきつづき口説いたほうがいい。
 いや、僕は女性の口説き方講座をしているのではない。ここで言いたいのは、男女関係は女性のためにあるのだから、男性の主観的な欲求と思考だけでそれを求めるのは無意味だということだ。
 無意味かもしれないが、自分は女好きであるから女性を求めるのはどうしようもない、という男性もいるだろう。僕は道徳を説いているわけではないから、そのへんはご自由にどうぞといっておく。ただ男性が男女の性関係において果たす役割は補完的なもので、女性のために果たすのだというのが事実なのである。
『童貞小説集』の童貞たちは生殖欲を男性の観念に変換して思い悩んでいる。本来、悩まなくていいことを思い詰めている。
 僕が自作の小説に性愛シーンを描写する時は、以上のごとき発想に基づいている。だから性描写が露骨でいやらしいとしても、拙作中の性愛行為は女性のためになされることである。ゲーテの「ウェルテル」のような強い恋心をもった男性キャラクターには大して関心を抱けない。そもそも男性の恋心は恋心であろうか。所有欲や独占欲に近しいもので、それらが生殖欲を伴って顕れたものではないか。どうもそう思えてならない。
 恋は女性のために存在している。