ももクロを応援し始めた頃のこと | ぎんちゃんの手紙

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ぎんちゃん
 ウェルッシュ・コーギー・ペンブローク・男の子 トライカラー(白・黒・淡茶) 永遠の14歳
 新”ぎんちゃん  ラグドール・男の子2008年8月生まれ
いまは ぎんまる(ヒトのオス)が好きに書いてます

『ミライボウル』ツアーからは計画的にLIVEに行くようになり。

と言っても柏の葉には行ってないので、生で早見あかりさんの卒業報告を聞いていません。

立川のフロム中武屋上での「国立川」も仕事の都合で参加出来ませんでした。

「神聖かまってちゃん」との対バンはUstreamで見ました。7曲連続でパフォーマンスする姿はある意味感動しました。2曲目3曲目辺りからボロボロに疲れ始めるの見て、「ももクロはアイドルを目指しているのではなくて、沖縄アクターズスクール的な、EXILE生的なパフォーマンスグループを目指しているのか? 逆に、EXILE生のような上手くない子ではなく、下手な子たちがボロボロに成るまで歌い踊りまくる姿を見せる的なぁ、新しいアイドル?」とも思いました。

わたしは『極楽門からこんにちは』のDVDがももクロ(無印)のBESTだと思いますが、早見あかりさん在籍時のももクロ(無印)からのBESTライブを上げるなら、この時の『かまってちゃん」との対バンのパフォーマンスがBESTだと思います。少々時間は経っていますが、この時のライブをDVD化して欲しいと今でも思います(^_^)

2011年は3月11日東日本大震災があり、『ミライボウル』ツアーのほとんどが白紙に成ってしまいました。たぶん4月10日まで年表に書かれてあるとおり、片手の指くらいしかイベントをやっていなかったと思います。石丸電気といえば、確か閉館前の石丸電気メデョア館で臨時震災募金握手会(写真物販?)を遣ったと思います。わたしはしおりんと握手した記憶があります。あとれにちゃんと手を振ったかハイタッチした記憶が、杏果ちゃんは募金をレジに入れていたと思います。あーりんと夏菜子ちゃんは休憩してたのかな? 「ありがとうございます」って頭を下げてお礼を言ってたのかな?

 

中野サンプラザでの『眩しさの中に君がいた』ライブです。

一部、二部共にチケット応募をしたのですが、一部のみ当選。

いわゆる「登場からマスクを被ってピンキー・ジョーンズ」「ソロ曲発表」「デコまゆ」の回です。これもね、ももクロZのライブのセットリストの構成の雛形になった会と考えれば、今になって貴重なライブだったと思います。しかし当時は、早見あかり卒業のコンサートの日なのに、こんな感じに一部、二部をやって終わって良いのかな?と思ってコンサート会場に居ました。(二部での模様は後でツイッターで知りましました。たぶん「やっぱり二部に行きたかったー!」と思ったモノノフは当時から沢山居たでしょう。わたしも一部、二部共に出たかったです)

中野の一部は、アイドルコンサートのショーという意味では面白かったです。しかしアレを続けていたら、ここまでのももクロの成長は無かったように今は思います。それくらい当時のアイドルコンサートから脱線したショーでした。

中野のあとに鶯谷での『試練の七番勝負』があって、その当日見せた3曲のパフォーマンスに『未来へススメ』のころからの必死さが見えたし、「壊れるなら壊れるまで(グループ解散)、見守ろう」という気持ちにさせてくれる“やってやろうじゃないか!”感がありました。

「やってやろうじゃないか!」的な必死さが、よみうりランドでの『極楽門からこんにちは』まで続き、また中野の一部で表現したショーの感じと上手く混ざり合って、現在の(杏果ちゃん卒業までの)ももクロZの形を作ったと思います。

 

ファンタスティックツアーも計画的に参加しました。この頃には日々の地震もほぼ収まり、安心してZeppなどのライブハウスで見られるなりました。最終日の「一日三回まわし」は、やはり三部のうち最初の回の、一部が当たったんじゃないかな? まだ全然元気な5人のパフォーマンスを見たと思います。

この頃から徐々にですが、ぶん回すような、感情に任せて動き回るようなパフォーマンスから計算して体力を残すようなパフォーマンスをし始めたと思います。例えれば大谷翔平選手がピッチャーとして投げるときに、以前は5回まで投げれればイイやとしてたのを、現在は7回8回まで投げる為の頭脳的なピッチングに切り換えている姿に似ています。

 

よみうりランドでの『極楽門からこんにちは』ライブです。

6人から5人になってしまいましたが、

メジャーデビューしたももクロ(無印)のBESTがこの日のコンサートだったと思います。いまDVDで振り返っても楽しいです(^_^) 

ちなみにももクロZ(第一章)のBESTは国立競技場での二日間のコンサートだと思います。私は両日落ちましたwww

伝説になった20分の寸劇(ヒーローショーの茶番)から、(ももクロのことが好きな人間に向けた)モノノフの懐の深さを当てにした緩い立ち上がり。徐々にテンションを上げてゆき、『ミライボウル』あたりからパフォーマンスのアクセルも全開、「魔法の水」で水分補給しながらどんどん会場のモノノフと共に興奮状態になりました。

『ココ☆ナツ』の水鉄砲。「夏」を日没前から日没後も一緒に過ごしている高揚感。アンコール後の『走れ!』、『コノウタ』、『ツヨクツヨク』で再びの水鉄砲、放水銃。ももクロちゃんも会場のモノノフも、楽しい楽しいでライブが終わりました。それが、川上氏佐々木氏の予定になかったダブルアンコールに繋がったんだと思います。

 

次回にまわさず、このブログで有安杏果さんのことについて書きます。

『ピンキー・ジョーンズ』からの本格観戦のわたしでも、杏果さんが他の5人から“心”の距離があることは察せられました。それに、ダンスと歌の強化のため「ももクロ」に藤下理事長と川上氏が入れたことも情報として知っていました。

プロ野球の球団に元大リーガーの選手が助っ人に入るような感覚で、ももクロの他の5人と杏果さんは居るんだろうなーと見てました。やっぱり距離は、2012年6月30日の「米子の夜」まであったと思います。

じゃあ、その後は4人(早見あかりさんが卒業後)との距離が無くなったかといえば、たぶん無くならず。少し…だいぶ縮まったという感じでしょう。

杏果さんは自分から積極的に4人とベタベタする感じはなく、“見られる”仕事として、仲が悪く見えないように気をつけながら「ももクロ」をやっていたように見えました。

それは、杏果さんが何度もインタビューで答えていたように、

「ベタベタしたことが出来ない性格」

「オンとオフを切り替えて、ストレスを多く抱えないように活動したい性格」

「小さい頃から計画的に物事を進め、人に左右されたくない性格」という性格の部分だろうと見ていました。

 

東京ドームでのTHE DIAMOND FOURの4人を見て感じたのですが、

杏果さんがももクロにもたらしてくれたダンスや歌の効果は、

十分にあったと思います。

 

ここまで書くのはアレですが、杏果さんの中で「ももクロの杏果」という役割は終わり、杏果さんの「人生設計」の中のももクロの存在はここまでで十分と思ったから卒業したんじゃないかな。

意地悪なことを書けば、杏果さん1年、2年したら帰ってくるんじゃないかと思います。子供の頃から歌を勉強して、EXILEのスクールに通いダンスを勉強して、ももクロでドラムとギター、ベース、作詞、作曲の勉強をしたのですから、自分一人でソロアーティストとして活躍する準備は出来たと思っているはずです。ももクロと平行して活動するのではなく、アイドルの仕事に時間を取られることなく、自由に音楽活動をしたいとももクロを卒業したんじゃないかな。

子どもの頃からの「人生設計」通りに行動してるとしても、わたしは驚きません。

 

最後に意地悪なことを書きました<(_ _)>