シン・エヴァンゲリオン劇場版考②:それぞれの補完 | アントニオ(教授)のブログ

アントニオ(教授)のブログ

ライブや芝居や映画などのレビューを書いていきます。かなり偏ってますが(笑)

「人類補完計画」に興味を持ってエヴァにハマった身としては、アニメ版、コミック版、旧劇版は納得のいく結末だったのですが、シン・エヴァについては、少々違和感を感じるところがあります。それは、アニメ版、コミック版、旧劇版が描いた補完の結末が「人類として単体の生物となることを望まず、生きづらく永遠の命でもないが他者が存在する世界を選ぶ」「自分は自分として存在して良い」ことであったのに対して、シン・エヴァのそれは、「人類」としての補完ではなく、主要登場人物「個々」の補完を中心に描かれているためです。前者の場合、補完計画が結局は失敗することになり人類は群体のまま地球上に存続することになる訳ですが、それは結局「群体として進化に行き詰まった状態」に戻っただけのことです。きっと幸せなことだけではなく辛いことや苦しいこともあるでしょう、でも人類(しかもシンジ君がそれを決めたことが重要)はそれを選んだんだよね、これからどう生きるかは人類として考えていかないと、というメッセージが受け取れる結末でした。しかし後者、シン・エヴァの場合は、個々の補完が描かれているだけにその内容が具体的で、しかもハッピーエンドなものだから(いや、それは良いんですけど)、かなり無理がある展開がありますよね。「えっ、ここでそういう過去があったことを明かす?」「そこで何故そうなる?」という展開が。また、矛盾する言い方になるかもしれませんが、個々の補完を描いている割にはステレオタイプな幸福感というか、多様性を欠いているような気がするんですよ。確かに、震災などの体験や庵野さんご自身が結婚された事等が影響を与えたこともあったとはは思いますが、受け入れる側からすると、それが賛否を分けることにもなるのかなと思います。もっとも、別の考え方も出来るのですが、それは一番最後に。


今回の補完は、「落とし前を付けて」「大人になる」というのがキーワードだと思います。


<第3村は理想の補完後の世界?>
最初にこのシーンを見たとき、「あぁ、結局これが理想郷なのかな」と思いました。よそ者を受け入れる寛容さ、拾った物は返す清廉さ、頑張ったご褒美は金銭ではなく「蕪」という価値観、「仕事とは皆で汗水を流すこと」「主産業である農業に従事することを免除されている」というコミュニティの組織観。第3村のシーンだけで映画が終わったとしても、受け入れてしまいそうな、そんな感覚でした。
そして、トウジも言ってましたが、「KREDITが(色々と支給してくれるだけでなく)他の村との交易も繋いでくれる、それがないと生きていけない」が肝だと思います。自分たちが直接交流せずに、自分たちは第3村として独立していて、他村との交易には他者(政府か?ただしその役割はいわゆる「御用聞き」「サザエさんにおける三河屋さん」)が介在する、という形は、もしかするとこれからのローカルコミュニティ、グローバル化の形かもしれません(と、コロナ禍で良く考えています)。KREDITのシンボルマークもそれをイメージさせるデザインですよね。だから、ヴンダーが第3村に寄港した折に、「これからの村の運営を村に任せる(少なくともヴィレは関与しない)契約の承認を(あやふや)」とのシーンがあったことに、「んっ?これはどうなるんだろう、これから。。」とちょっと心配になりました。まぁ、ヴィレはこれから戦闘に行くという時ですから、そういう契約は必要だったのだと思いますが。。


<シンジ君の場合>
第3村でトウジと一緒に手押し車を押しているシーンで、トウジが自分自身の事として「ニアサーの後、生きることに必死やった。お天道様に顔向けできないこともした。自分のことは自分で落とし前を付けないと」と語ります。この「お天道様に顔向けできないこと」については何も語られませんが、これはコミック7巻で加持さんが「セカンドインパクト後にあった出来事」について語っていることが参考になります。ニアサーの後もかなり悲惨な状況だった事が想像できます。しかしそれに対してきちんと向き合って責任を取らないと、とトウジは語るわけです。次のシーンはケンスケのお父さんの墓参りのシーンで、そこでケンスケがシンジ君に「親父さんは生きてるんだろ?ちゃんと話さないと」と語ります。おそらくこれらのトウジ、ケンスケの言葉で、シンジ君は心が決まった=補完が完了した、のだと思います。それでヴンダーに戻ることを決意したのでしょう。仮称アヤナミレイが幸せの形を見つけたものの消えるしかなかったことも決断の理由の1つになったと思います。ゲンドウと戦うことになる時にミサトさんに対して「僕は僕の落とし前を付けたい」と言ってますし、補完の中心をカヲル君が引き継いだときにシンジ君が「僕はいい。それより、皆を幸せにしたい」「僕がお父さんがやったことの落とし前を付ける」ともと語っています。ユイに言われた「世界中の人達の幸せをあなたが守るのよ(コミック14巻)」を実行する訳です。それを受けてカヲル君が「君はもうリアリティの世界で既に立ち直っていたんだね」と語っています(語っているシーンはエヴァイマジナリーの中の世界だから、その対比としての「リアリティの世界」)。ミサトさんからの槍を受け取ったシンジ君に対して、ゲンドウが「他人の死と思いを受け入れられるようになったか、大人になったな、シンジ」と言った言葉が全てを表していると思います。

最後、皆を送り出した後、ガイウスの槍を自ら(初号機)に突き立てて補完を完遂しようとしたシーン、自らを贄とする覚悟(それが「落とし前を付ける」ということ)だったのかと思いますが、ここでユイが現れます。シンジを送り出して槍を引き受けるユイ。これは、「あなたはちゃんと世界中の人達の幸せを守ったのだから(コミック14巻でユイがシンジに伝えた約束)、次はあなたが幸せになりなさい」ということですよね。ここで流れる松任谷由実の「VOYAGER~日付のない墓標~」。泣きます。25年間の全てがこのシーンにあると言っても過言では無いです。そして、ユイ自身は安心してシンジを見送り、エヴァに残った目的を達成して生涯を閉じます。そこに、ユイを見つけたゲンドウが重なります。ゲンドウはユイと再会してユイと1つになる(ユイを見送る)ことで補完となります。シンジはここで父親の「神殺し」の目的を知ります。ちなみにコミック版ではユイとゲンドウは大樹の陰からシンジを見守りますが、これはコミック版ではシンジ君は補完後も母親の庇護の元にあるから(前ブログ参照)。でもシン・エヴァではシンジ君は「大人になった」ので、ユイとゲンドウはシンジを見送るのではなく2人の幸せへ導かれます。これで全てが終わりなので、零号機から7号機までの全てのエヴァンゲリオン(と初号機、13号機)が槍に刺されます。8号機から12号機はシンジ君を迎えに行く役割が残っていますからね。エヴァイマジナリーから外に出て「渚」で待っているシンジ君のところにマリが戻ってきてシンジ君の補完完了です。最後のエヴァンゲリオン、8号機から12号機はここでお役目終了です。


<ゲンドウの場合>
「世界の中心でアイを叫んだけもの」いや、「世界の中心でユイと叫んだけもの」ですね(苦笑)。シンジ君と13号機と初号機で相対している段階から、2人で直接話をする段階に変化していく過程で、2人の関係性が逆転していくのが興味深かったです。仕方ないですね、その時点(エヴァイマジナリーの中での対話の時点)では既にシンジ君はリアリティの世界で補完が終わって一足先に大人になっているので。今作の中ではゲンドウ曰く、シンジ君の事は邪魔な存在であり自分にとっての罰であると語っていて、自分の傍にいるとシンジ君が不幸になるので、他人に預けることは贖罪でありシンジのために良いことと思っていたと語るシーンがありますが、いやいや、どれだけ自己中心なのか、と。実はコミック版ではもっと辛辣で、シンジ君にゲンドウが「ユイの愛を一身に受けるシンジが妬ましかった」と直接話しています。いやいや、あなた父親でしょうが、と。さらに「ユイを再構成するマテリアルとしてシンジが必要かどうか分からなかった」と、息子の事を「マテリアル」呼ばわりしているほどです。外界を遮断するために利用していたSDATが、ユイと知り合った時に停止しますが、シンジ君が生まれたときに再度再生が始まるのもそういうこと(シンジの拒絶)でしょう。

結局、一番子供だった、成長が必要だった、大人にならなければならなかった、補完が必要だったのがゲンドウだったということだと思います(庵野さんは自分を重ねたのか、アニメに夢中になるいい年をした大人達を重ねたのか。その両方だったのかも)。

シンジ君はケンスケに言われたとおり、父親との対話を望みます。シンジを拒絶することがシンジに対する贖罪と解釈していたゲンドウにとって、そのシンジと正対することは苦痛であったはず。それでATフィールドを発生してしまいます。神となり全ての物を受け入れることができるはずのところATフィールドを発生してしまうのですから、そうとうの拒絶タイプです。そこで先のSDATをシンジ君がゲンドウに返します。SDATを手にしたことで自身の過去と内面を語り始めるゲンドウ。この「内面をさらす」のが、エヴァイマジナリーの効果であるのだと思います(ATフィールドを発生してしまうのもその効果だと思うのです)。内面をさらして補完されていくのは、TV版のラストでシンジ君が補完されたシーンと重なります。シンジ君に「自分の弱さを認めなかったからだよ」と諭され、自らの誤りに気づき、シンジに「すまなかった、シンジ」と伝え、ミサトさんからの槍を受け取ったシンジを見て大人になったシンジに気が付いたところで、ユイがシンジと共にいたことに気が付きます。ここでSDATが止まります。もう二度と動き出すことはないでしょう。そして電車を降りていきます。これでゲンドウの補完が完了です。ユイと一緒にガイウスの槍に刺されて2人の世界へ導かれます。

ところでこのSDAT、破の時までは26曲目が最後で、リピートして最初に戻ってたんですよね。26というのはTVアニメの放送回数。それがQでカヲル君が修理してから27曲目へ、26曲から先に進むんです。これは、「新しい話に進むよ」という表れだったのかなと思うのですが、今回、29曲目で止まるんです。ユイと出会ったシーンの想起でSDATが29曲目で止まり、シンジが生まれたシーンの想起で29曲目から再生再開、最後に止まったときも29曲目なんです。29の意味って。。? 碇ユイの年齢かと思ったのですが享年27歳ですね。。どなたか、29の意味を教えて下さい!


<アスカの場合>
ゲンドウが下車した後にカヲル君が現れ、「今回の補完の中心はゲンドウだった。ここからは僕が引き継ぐよ。それで、シンジ君はどうしたいの?」とシンジ君に尋ねた時、シンジ君が「僕はいい。それよりみんなを幸せにしたい。お父さんがやったことの落とし前は僕が付ける」と語るのは前述の通りです。そして、「アスカ!」と叫び、アスカの補完の番となります。LCLの水槽の中で「はっ」と目覚めるアスカ。シン・エヴァで最も驚いた事の1つがこの「アスカもクローン」という事実でしたね。

父も母も分からず、ただエヴァパイロットとしてハイスコアを残し優秀なパイロットである事にアイデンティティーを見出していたアスカも、「ただ頭を撫でられたかっただけなの」と心情を吐露します。その横に現れたのはケンスケ。コミック14巻の最後の駅のシーンで、ケンスケと思われる男子がアスカと思われる女子を見送りながら「オレ好み」というシーンと繋がります。

旧劇版のラストを思わせる、赤い海の「渚」でシンジはアスカと再会します。この時のアスカを「これは惣流!」「貞本さんが描くアスカ!」という意見が見受けられます。確かにそう見受けられますが、私は注目すべきはそこではなく、髪から外れて砂浜に転がっていたインターフェースヘッドセットだと思います。エヴァのパイロットである事だけがアイデンティティーであったアスカは、普段の生活の中でもこのインターフェースを髪飾りとして常に着用し(普通、そんな重要なアイテムはプラグスーツと一緒に保管でしょう)、常に身に付けていました。しかしこれが外れています。ということは、もうエヴァパイロットとしての自己認識、自己肯定は必要なくなったということを意味していると思うのです。ケンスケというパートナーを得て補完される、ということでしょう。実際、エントリープラグ内でハッと目が覚めたアスカはケンスケの家にいたときの服装となっており、このエントリープラグがケンスケの家の近くに到着しているシーンが描かれていますよね。

1つ解せないのは、最後の駅のホームのシーンで、シンジ君の反対のホームの左端にアスカと思われる女の子が座っているのですが、そばにケンスケらしい男の子はいないんですよね。なぜかなぁ。


<カヲル君の場合>
カヲル君は難しいですね。。ただ、「ゲンドウが電車から降りた後に現れて、補完の中心を引き継ぐ」「ゲンドウもピアノを弾く」「司令、と呼ばれる」「ゲンドウが操る13号機をシンジ君がカヲル君に対して「君のエヴァも処分しようと思う」と話す」というあたり、やはりゲンドウと関係があるのだと思うんです。ゲンドウはシンジ君を忌み嫌っていましたが、カヲル君はシンジ君を幸せにするために生まれてきた、と言います。正反対です。使う槍も、ゲンドウはロンギヌス、(Mark.6の)カヲル君はカシウス、逆です。ということは、カヲル君とゲンドウは表裏一体の関係で、カヲル君はホワイトゲンドウ、とも言える立場なのではないでしょうか。そう考えると、加持さんが「(渚司令も)実はあなた自身が幸せになりたかったんですよ」というのが理解できます。ゲンドウも自分の幸せのために計画を遂行していましたから。

カヲル君は、幸せにしたいと思っていたシンジ君が既にリアリティの世界で大人になったことに気が付き、それで自分自身の幸せについて考えることになるのだと思います(加持さんという触媒があって)。

以下、強引な考察です。

「生命の書」には、神に忠実かつ従順で永遠の命を神から与えられた人達の名前が書かれています。カヲル君の名前はこの「生命の書」に書かれています。そして第1使徒のアダムです。そう、神が最初に造った人間はアダムですから、カヲル君はまさに神から造られ永遠の命を与えられた人、ということになります。そして、神に忠実で従順ということは、「人を幸せにする」という役割を担う、とも考えられます。永遠の命で円環の世界を生きていく中で、たまたま「今」のターンが「シンジ君を幸せにする」ターンだったとは考えられないでしょうか?(で、何回か失敗していて、「今度こそ君を幸せにするよ」なのか??)そして、新劇場版のカヲル君がシンジ君を幸せにするために取った方法が、ゲンドウの「裏」としてシンジ君の前に現れることだったのではないでしょうか。

んー、かなり無理があるなぁ。。

最後は、加持君に「もう彼(シンジ君)に任せましょう」と言われて2人で去って行きます。永遠の命を捨て、生命の書からも名を消して。シンジ君が大人になったから。それがカヲル君の補完。

補完された世界、駅のホームの反対側、綾波とカヲル君がパートナーになっているように見えるのは、綾波=ユイ、カヲル君=ゲンドウ、ってことで間違いないと思います。


<綾波レイの場合>
シンジ君が助けたと思っていた、でも初号機に残っていた(髪だけ伸びた)綾波が、「私はここでいい」と言うのを、シンジ君が「もう1人の君は別の幸せを見つけたよ」と補完するシーンで、綾波はつばめの人形を抱いてます。消えた仮称アヤナミレイが輪廻、ループしてきてるんです、というよりは、消える間際に「さよなら」と言った、そのお陰ですよね。「さよなら」については、「序」ではシンジ君が「さよならなんて悲しいこと言うなよ」と言いますが、今作では委員長が「また会うためのおまじない」と教えています。またシンジ君に会いたい気持ちが「さよなら」と言わせた、そしてまた会えたわけですね。ちなみに「つばめ」は渡り鳥です。巣立ったつばめは、翌年また同じ場所に戻ってきます。また綾波の元に戻ってきたわけですね。「シンジ君がエヴァに乗らなくても良い世界」を気にする綾波は、シンジ君の「エヴァのない世界にする」「マリさんが迎えに来てくれるから大丈夫」の言葉に安心して「ありがとう」と握手して補完されていきます。補完後の世界ではカヲル君がパートナー。前述の通り、綾波=ユイ、カヲル君=ゲンドウ、との解釈です。

そう、この「握手」に関して。コミック14巻の補完のシーンで、LCLの海の中でシンジ君が綾波と話すシーンで「この世界は違う、(中略)もう一度君と手をつなぎたいんだよ」というシーンがあります。これは今作で、仮称アヤナミが委員長に(こどもが親と手を繋ぐシーンで)「あれは、何?」と尋ね、委員長が「仲良くする為のおまじない」と答え、仮称アヤナミがシンジ君に手を差し出して「仲良くする為のおなじない」と言うシーンにつながるのかなぁ、と。シンジから手を繋ぎたいと言ったコミック版、仮称アヤナミから手を繋ぎたいといった今作、そして最後の綾波との握手、の対比。握手は、子供のシンジ君とカヲル君のシーンでも出てきますね。「ATフィールドがある、相補性の世界で生きるための手段」なんですね。

そうなんです、握手(会)は重要なんですよ!!(笑)


<ミサト、リツコの場合>
この2人は「補完」ではないですが、2人とも「母」というキーワードがあるので、ここで言及しておきます。

もう一つのキーワードは、「マギ」です。マギは、「科学者(職業人)」「母」「女」としての役割を備えた、リツコの母、赤木ナオコが開発したスーパーコンピュータです。

ミサトさんは、シン・エヴァで母になっていることが語られます。これまでのミサトさんをマギをキーとして考えたとき、無かったのが「母」としての役割でしたから、これを満たしたことで補完されたのか、と。

リツコについても同様です。リツコにも「母」というキーワードがなかった訳ですが、リツコが最後にミサトと話すシーン、ミサトが「全ての種、子供達をよろしく」とリツコに頼み、リツコが「最善を尽くすわ」と答えます。これはつまり、補完後の世界で種から生まれる新しい生命、子供達の「母」となることを承諾したという解釈が出来ると思うのです。



今回の補完ですが、最終的に皆パートナーが出来たり、母親になったり、という、いわゆる「家庭をもつ」的な幸せに帰着しています。第3村の描き方も含めて。幸せの形は人それぞれなのに、結局それが「大人になる」っていうことなの?、という感覚を感じる人もいるのではないでしょうか? この多様性の時代に。

ただ、シンジ君はユイから「世界中の人達の幸せをあなたが守るのよ」と伝えられいます(コミック14巻)。その役割を果たしている訳なので、あくまでも「映画で具体的に描かれた人達の補完以外に」きっと多様な世界中の人達を幸せにしているはず、そう信じたいと思います。


さて、次はいよいよ「人類補完計画」そのものについて、かな(でも難しすぎる。。)