このことは現代社会でますます大切になっていると思うのですが、見失われがちになっていると思います。

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意地になるっていうのはその子自身の生命燃焼が行われてるってことでしょうね。

「先生の言う事はよくわかっている。けれどやっぱりついて行かれないんだよ、それには。」

っていうところが、一番個性と関わりを持つっていう問題、人間が生きてるっていうことと問題を持っている点なんじゃないですかね。

 生命力って何かというと『生きたい』んだよ。みんなそれぞれなりに生きたがっている。僕はこう生きたい、私はこう生きたい、ってどっかで思ってるよ。それが個性だよ。       (昭和六十三年合宿)


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従順を求める大人達からすれば、子どもや若者が「意地をはる」というのはとかく否定的にみられがちです。

 

また最近のように、「自分の思い通りに振舞って欲しい」「自分の価値観こそが正しい」という願望の強い世の中では、同じ若者同士で意地をはる相手に対して否定的な態度を示しがちですよね。互いに自分のこだわりを貫く姿勢を応援しあうのではなくて、潰し合うような・・・。

大人からも同年代同士からも、そんな風になっているから、「気に入らない相手からは離れよう、無視しよう。」となってしまい、個人個人がますますバラバラの存在になり、結果として生命力そのものが低下しているのかもしれません。

☆もちろん犯罪レベルでのいじめやパワハラを容認しているわけではないですよ。
ただ、ちょっとでも自分と気が合わないと感じる相手をどんどん排除しようとする姿勢は本当にいいのかどうか、私は疑問に感じています。


私だって「こんなやつはいなくなればいい」っていうのは今でもいます。
おそらく相手も同じことを私に対して抱いているでしょうね。

職場などもそうですが、やはり事実としてはみんなが「自分らしく生きたい」と思えば思うほど、個々人の違いによる衝突だって起きます。互いに気に入らないというのも強くなるでしょう・・・生命力が強まるわけですから。

「嫌なやつとなんて無理してつきあうことない」という主張も、自然な気持ちとしては分かります。
でも、そうして嫌な人間がいない場所を求め続けてはたして本当に自分の居場所はみつかるのでしょうか???
仮に自分の思い通りにしてくれる人達に囲まれた場所があったとしたら、もしかすると、それは周囲がとっても優しくて、みなさん自分のことを押さえてくれているだけなのではないでしょうか???

自分がストレスを感じないためには、周囲はストレスを感じてもそれを押さえて自分の思い通りになって欲しい・・・そんな姿勢でいつづけたら、せっかくの優しい人達も、いつか自分から離れて行ってしまうのではないでしょうかね・・・・

11日に更新したこちらの内容とも深く関係しています。
上原輝男記念会ブログ
人間の生き様 かぶき者&現代人
http://jigentai.blog.shinobi.jp

今日が上原輝男没後28年の命日、ということも意識しての特集です。

普通は個人個人のこととして考えられている「人格」も古来から日本人は「家系」からとらえていたという内容。
国立民族博物館、子ども文化の共同研究最終時の討論会で先生自身が発言したことについて 折口先生の言葉を紹介しながら講義で語っています。
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「日本人の人格・・・個人は人格たりえない」って言っているんですね。「家系が人格」・・・存続するものが人格なんですね。私が言う方が確かでしょ。

滅ぶモノが人格だったりするわけないじゃないですか。そうでしょ。死んだらおしまい、なんてものが人格だなんて、そんなもん人格じゃない。そんな事を言ったりしているんですけど。あれは玉川大学の上原教授の発言ってことになっている。出るんでしょうから。そうするとその教えを経て皆さんが活躍する・・・

いや、私も「私が言ったんじゃない。私に何か乗り移っているのかもしれない」・・・こう思うと気が楽ですよ。

     国文学講義(1)  昭和59年10月1日 
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「受け継ぐ」「伝承」ということを「家系」という視点からとらえているわけです。同じ血の流れでいう一族でなくてもいいわけですよね。

師弟関係での「同門」も広い意味での家系です。

具体的な思想・・・知識としての考え方・・・を受け継ぐということだけが、伝承ではない。
「生き様そのもの」を受け継ぐことがより重要であるということにもなるのではないでしょうか。

つまり、例えば上原輝男の説いた古来日本人の心、ということに納得がいかないという場合です。
考えている内容に納得していなくても、その探求への姿勢そのものを受け継いでいたら、それもやはり伝承していることになるのであろうということです。


*上原輝男記念会公式ブログの方では、今日の命日にちなんで生き様についてふれています。
人間の生き様 かぶき者&現代人
http://jigentai.blog.shinobi.jp

 

*上原輝男記念会 資料集サイトでは、上原先生の命日にちなんで寄稿された4つの資料を今日(4月11日)の午前中には更新する予定です。是非そちらもご覧ください
http://jigentai.edo-jidai.com/
→4つの資料の中で、この「生き様を受け継ぐ」ということに特に関りが深いのが、座談会の記録です。

 


*国立民族学博物館での共同研究については出版されています。
子ども文化の原像 文化人類学的視点から
岩田慶治編著 (国立民族学博物館教授)  
1985年 日本放送出版協会

P772 「子どもの人格」に関しての上原発言

「封建制度」のイメージで以下のことばをとらえると「古い憲法や民放の時代に逆戻りせよというのか!」「家に縛られることがいいと思っているのか!」
という反論があると思います。

「個人」の尊厳を否定しているように受け取られる言い回しもしていますから。

ただ、上原先生が「個人の権利の否定」「個人の自由を縛ることを容認」云々のことを言っているわけではないというのは了解して頂きたいと思います。

個人の命(魂)を日本人がどう感じとってきたのか・・・そうした生活をずっとずっと昔からやってきた根底にある意識を探り、語っているというスタンスです。

「ちゅらさん」をたびたび例に出していますが、後半シリーズで次々と婚姻関係で古波蔵家の家族が増えていきます。その際にも「同じ家族になったんだね」というセリフが何度も出てきます。単に一組の夫婦ができた、というのではなく、古波蔵家という大きな流れの中にのった・・・という感覚なのだと思います。

有名な絵本でいえば「はっぱのフレディ」と通じる感覚でしょうかね。大木が「家(家系)」です。

そうした大木自体もさらに大きな時間の流れの上にある。
それを描いているのが、例えばここでも以前話題にした「おじゃる丸」の「また会う日まで」だと思います。

そういった考え方を述べているというつもりでお読みください。

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・残るは先祖霊だよ。その人自身を語る時にその人の先祖霊が、丹波哲郎じゃないけど、どうとりついているかっていう。それだってその人自身ではないでしょう。生命としての連続体がその人にどう現れていたかというだけの話だから。

 日本人はそれを知っていたから、上原輝男を語るにも『上原何代目である』と、『何代目はお亡くなりになりましたけれど、新しいこの次の当主はこれですという説明をしていく。だから個人なんて大切なものなんて一つもない。それに代わるものとして家の復権だね。もう一度考え直さなくちゃいけないの。  
       (平成二年合宿)


・家っていうのは命のよりどころっていうことがわからないんだ。現代人は『家の思想』を失った。
 家の方が大きかったんだもの。個人よりも。日本人は・・・。『個人は家についているものだ』っていうのは日本人の考え方だったんだ。今の人達は『個人がいるから家がある』と思っているから。                      (平成三年合宿)


・どうして『おうち』意識について探ったのか・・・ 
子どもの宇宙観・存在観(時間・空間)が知りた かったから。

 子どもはどういう体感を持っているか・・・『ぬくもり』これが子どもを育てる。
              (平成二年九月例会)


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☆「上原何代目」という言葉がありますが・・・明日4月11日は上原先生の没後28年にあたる命日です。


古典芸能の世界以外でよく言われるのは、料理の世界での「この店の味」という感覚でしょうか。
代々味が受け継がれていくことで、各段階の肉体は滅びても、ずっと生き続けている、という感覚です。

こうした感覚が別の形をとると「子孫を残す」という生物共通の姿勢・・・本能・・・になるのでしょう。

自然界をみると、自分の子孫を残すための執念ってものすごいものを感じます。それこそ微生物のレベルからあらゆる生物が子孫・・・自分の分身・・・を残すために様々な方法をとっている・・・それぞれの進化をとげている。

自然界を描いた番組などでのメスを巡ってのオスの闘いもすさまじいものがたくさんありますよね。

もちろんそれらは本能をして行っているわけでから、同じ「地球上の生物」であってもそのまま人間にあてはめて考えることはできない部分もあります。

子どもを持ちたい、でも社会制度の不備や、日々の生活の苦しさから、子どもが欲しくても無理、という方々もいらっしゃいます。身体的な理由で子どもの欲しくても産めないという方々もいらっしゃいますから。
当然のことながら「子どもを産まない」という自由意志による選択肢だってありますからね。


ただ、そんな現代社会だからこそ、子どもは個人のものだけではなくて、社会全体で守り育てていくという共同意識を、もういちどきちんと見直す必要もあると思うんですよね・・・・

せめて、街中で子育てで苦労している方がいたらさりげなくフォローするとか、それができなくても、人込みで子どもが大泣きしているときに、露骨に不快感でプレッシャーをかけたり、頭ごなしに「静かにさせろ!」と怒鳴りつけたりしない、とか・・・・・



参考)昨日、たまたまネット上でみつけた記事です。
駿煌会 ×上原輝男記念会
さきほどみつけた記事、ブログ更新のあとだけにグッときました。

いい親子関係を心掛けてと一生懸命に子育てしている人を追い詰めるような人が減ってほしいものです
https://news.goo.ne.jp/article/hicbc/life/hicbc-1102555.html
逃げて行った彼氏はどんな気持ちでどんな暮らしをしているんでしょうね
まさか同じ繰り返しはしていないよね





この上原先生の説いている古代人からの発想をさらに大きくいえば、「人類の存続」そのものの問題です。

子育てがその家族だけでは非常に困難だったら、その家族だけではなく、社会全体の「ぬくもり」が子ども達を育てるようになったら理想なのでしょうね。

そして他人の子どもの成長も自然に喜べる社会。
そろそろ競争原理で他人の子どもは敵であるかのような発想の次を目指しませんかね

☆良きライバル関係での競い合い高め合うのはいいと思います。
負けてメチャクチャくやしがっても、相手を称える気持ちはちゃんと持って、次に備えるという関係ならば。

この発言は平成2年
まだまだスマホなどがこんなにも小学生段階から入り込んでいなかった時代の発言なのですが、一番最初の「暗闇」などは、自分の部屋でも街中でもなくなっていますよね。
それは一見文明的な生活であるようで、実は生命力を著しく低下させている大きな原因の一つなのかもしれません。

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(夜を怖がる子どもが明りをつけて安心する、ということに関して)その安心が逆なんだって。家というのは安らぎを得る所だろ。明りをつけたら生命体が安らぎを失うことなんだよ。だから皆あべこべになっているんだよ。感覚的にね。明りをつけて現実空間に戻ってそして安心するなんて『自分』はもぬけのカラになっているんだ。暗闇になった時、初めて自己にかえって生命体が活躍しているんだ。その躍動を止めちゃうってことだね。

 家っていうものは子どもの生命体としての感性が息づいている。

 (子ども)という生命体が生まれ出るところが家なんだよ。その生命体を包んでいるものが家なんだよ。野っ原に生み落とすわけではないんだよ。今度は視力がついた時にその生命体はどんな反応をするのだろうか。奇妙なことだと思うのよ、僕は。顔が見える。家族の顔が見える。皆の顔がのぞき込むんだから。ところがどれ一つとして同じ顔はしていないんだもの。

この生命体は驚くと思うよ。・・・そういう環境の中に生まれているんだよ。同じ自分を包んでくれる人間でありながら、どうして顔がこんなに違うんだろうかと思う筈だと思うんだよ。どうしてって言うのはその理由を求めているわけではないけれども、生命体は生命体の何を勉強していかなくちゃならないかというのは、その生命体を守っているその集団の研究をしていかなくちゃならない筈ですよ。それに名称がついていくわけよ。お父っつあん、おっかさん、じいちゃん、ばぁちゃんっていうのはそうだろ。

 だから現代人は本当にバカになってると思うんだ。この生命体を育てるこの組織があるにもかかわらず極めて薄い薄い層の中で生命体を育てようとしている。その家の組織が人間が生きて行く活力を学んでいく材料なんだものな。

 家具の新旧なんて、実に簡単だったんだって思うんだよ。だって自分をのぞきこむもの自体が人間の古さ・新しさっていうものをバーッと見せてくれるんだもの。直観的に生命体は生命がどんなものであるかが学べるような仕組みをちゃんと持っているんだ。そして古いやつから去っていくんでしょ。

 人間がこの家を忘れたら人間は秩序を失って行きますよ。どんなに生命の尊さを教えようとしたって家が崩れたら生命の尊さを学ぶ理由がなくなってしまう。愛情豊かな家に育ったものほど豊かな人間が育つに決まっているんだから。子どもは絶対に大事に育てなくちゃうそですよ。

 家の問題は生命を包んでいるその環境状況・・・具体的には人間関係であるということだね。だから時間観・空間観を引っ張り出すという事は、同時に人間関係を引っ張り出すことでもあるってことだね。

 人と会う、人と別れる、っていうのはそれは家ということによって代表されている生命体の変動、必ずその生命体に変動をもたらしている問題であることでしょうね。
(平成二年合宿)


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この前から話題にしている「ちゅらさん」などは、まさにこの内容がドラマ化されているようなものです。

確かに「家」に縛られて個人の自由がないがしろにされてきたということはずっと続いていたし、今でも家によってはあると思います。「家をつげ」「この家の者としてふさわしく」等々

でもその反動が行き過ぎて、逆に個々人が精神的な母胎を失って、物質的にはかつての日本人が信じられないくらい恵まれているのにも関わらず、家族の間でも感謝を忘れて不平不満・・・親子でもきょうだいでも互いに自分の自由を妨げる敵どうしのようになっている場合が少なくない。

地域社会がどんどん機能を失いつつある現代社会・・・・自由と身勝手のはきちがえで、問題はすべて他人のせいにして・・・・

人間としての一番最初の「家」の意識がおかしくなっているのですから、当然といえば当然の結果だと思います。

自分達の今この先もこのままではというのが切実な今、子孫にまで大変な問題のツケを残していくというのは、あまりに身勝手ではないでしょうかね

☆もちろん家や地域によっては、ちゃんとしているところはまだまだあります。
ただ、そういう所でもネットなどの影響で若者がどんどん変わってしまっているという事実もあります。
本当は逆に人間らしい幸せな生活のお手本となりつづけてほしいのですけどね。


11日は上原輝男先生の没後28年の命日。
もうそんなにたつんだな・・・と思うと同時に、平成2年の時点で先生が懸念していた方向にどんどん加速しているということに、申し訳なさもかんじているんですよね・・・

 

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 日本語としての『夢』や『家』何故(そう)呼んだか。『夢』のユ、今でこそ現代語の発音ではユと言っているけれどもユも家のイも同じなんですよ。元来の発音では神秘力そのものを示すのがユ・イこの音なんですね。それを夢の場合にはその神秘力を見る事が

『ユめ』と日本人はどっかでつかまえている、ということだと思うし、家の問題はその神秘力に対する、その神秘力それ自体を『え(へ)』という言葉を補うことによって何か限定しようとしているものがある。

『え(へ)』というのは囲いですよ。神秘力を囲ってみたということなんです。神秘力の確保、それを家といっていいでしょうね。それを今や日本民族は家を崩壊させようとしているんだから、阿呆としか言い様がないわね。家を単なるねぐらとしか考えようとしていない。

 

しかし、ねぐらっていうような言い方をすること自体も家のひとつの真理をいってるんだと思いますよ。だから家は休む場所なんですね。日本語の休むというのは『寝る』ことなんです。          

『神秘力を眠らせる。』『安らかにしてやる。』先程、誰かが安心と言ったけれど安らぎなんです。安らぎと言うのは、やっぱり『いやすらぎ』なんですよ。『い』の問題を静かな状態に保存していく、それが『やすらぎ』なんですよ。・・・休憩するってことではないんです。・参『休む』

 『ねぐら』とは素晴らしい言葉だ。『くら』っていうのは大事なものが入っている、そういう言葉なんだね。建物ではなくて。・・・

(平成二年合宿)

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上原先生が「音」から考察を進めているのは、古来からの日本語は「音の響き」を非常に重視した言葉だからです。
「〇〇という言葉はこういう意味の言葉」と定めている、という「記号」ではありません。
本質が感じられるような「音」が先に選ばれているという場合が非常に多い。

*「言霊信仰」というのもこのあたりと関係が深いです。
中国人は文字の形で本質を表そうとしているわけですが、日本語は音の響きにイメージを託しています。

そう考えていくと、大人も子供も帰宅後も現実対応に追われ続けている状況では、家の本質からどんどんずれているわけですから、誰もがもっている生命力も挫折回復力もなかなか発動しません。

サプリや栄養ドリンクや医師から処方される薬では、一時しのぎや見た目の症状は抑えられても、本当の回復にはならないと思います。