その塔は崖の上にそびえていた。古城といったおもむき。塔のてっぺんの三角屋根の頂点には恐ろしいドクロを描いた旗が風になびいていた。
 どこから塔に入ることができるのか、にわかにはわからないほど周囲は切り立った地形だった。峻険な岩場がぐるりとめぐらしてあった。塔につづく道らしい道も見当たらなかった。
 だが塔のなかには人がいて、話をしていた。中背の中年男が中くらいの長さの軍服を中途半端に身につけて広間に立っていた。白髪頭の年配の紳士がやってくると中年男は軍服の襟をとめた。
「煉獄大使であるな」中年男は紳士を見て言った。「わしの右腕の貴君が、今日はなんの用で会いにきたのかな?」
 きかれて白髪頭の煉獄大使は答えた。
「閣下。このたびは謹んでご進言申し上げたく存じます」煉獄大使は頭を下げた。「われら秘密結社ジョーカーはいままで人類を征服し、世界中の人間どもをジョーカーの支配下に従属させるべく孤軍奮闘して参りました」
「うむ。まさにその通りだ」軍服の中年男はいかめしくうなずいた。「われらジョーカーの戦闘員たちの力をもってすれば、世界征服は不可能ではない。ていうか、このわし、ジャドー将軍の辞書に不可能の文字はない」
「そのはずでございました」煉獄大使は粛々と首を垂れた。「すべて将軍閣下のもくろみ通り、計画は遂行され、各国の権力中枢はことごとくジョーカーの手中に収まるはずでした。……あの仮面サイダーが現れるまでは」
 するとジャドー将軍は忌々しそうに舌打ちし、顔をしかめた。
「まったく、仮面サイダーのやつのせいでわしの計画は台無しだ」将軍は苛立たしく床を踏み鳴らした。「正義の味方を自称するあの覆面のごろつきがわがジョーカーの尖兵たちを次々に亡き者にしていった。ワニ男もピラニア男爵もドクターゲイも倒された。死んでいったわれらの兵隊の仇討ちのためにも、われらは必ずや仮面サイダーを倒さねばならん」
「そのことなのですが、閣下」煉獄大使はおずおずと言った。「わたしがご進言したいのはまさにその仮面サイダーのことなのです。あのサイダーのためにわれらジョーカーの戦闘員は半減してしまいました。そればかりか、先週サイダーと戦ってジャガー少佐がやられた時、あの憎き仮面サイダーは『これからジョーカーの本拠地へじきじきに乗り込む』と宣告したのです」
「うむ。確かにそんなこと言ってたな」ジャドー将軍は言った。「だがやつにはそんなこと実行できまい。第一にわれらの基地であるこのジャドー城を見つけ出すのが困難だ。第二に、よしんば見つけ出したとしてもこの城の入り方がわかるまい。そしてもし城の入口を運よく見つけたとしても、城内各所に設けた罠の餌食になるのは避けられまい」
「ところがです、閣下」煉獄大使が言った。「先日、このような手紙が城に届いておりました。閣下にお見せするのが遅れたことはまことに申し訳なく、お詫びいたします。実は閣下にすぐお見せすべきか、悩んでおりましたところでして」
「なにを悩んでいるのだ。その手紙はだれからだ?」
 煉獄大使は言いにくそうにしていたが、思い切って早口に答えた。
「仮面サイダーからです」
「な、なんだとっ」ジャドー将軍はおどろいて煉獄大使から手紙をひったくった。「それを早く言え。一体なにが書いてあるんだ……」
 ジャドー将軍は封筒のなかの便箋をとり出して読んでみた。

ジャドー将軍に告ぐ

 お前たちジョーカーの隠れ家はとっくに見つけ出してある。あの崖に建ってるジャドー城だろう? 城に入る方法もつきとめた。秘密の地下道があるんだな。入口は頑丈な鍵がかかってるが、ダイヤルを右へ二回転、左へ三回転半すればあく。
 明日の朝十時に参上する。首を洗って待っていろ。

           仮面サイダーより

 手紙を読むとジャドー将軍はソワソワし出した。咳払いをひとつして、クルリと煉獄大使に背を向けた。それから振り向いて口をひらいた。
「そうそう、煉獄大使。貴君に言い忘れていた」ジャドー将軍は言った。「わしは今日の午後から出張に行かなくてはならない。遠方だから半年ほど戻れない」
「閣下。わたしは閣下にご進言いたしたく存じております」煉獄大使はジャドー将軍のセリフを遮って言った。「仮面サイダーは予告通りこの城に乗り込んでくるでしょう。きっとそうなります。あいつの戦闘力の高さは仕掛けた罠をものともせず、われらの前までたどりつくにちがいありません。閣下。わたしは降伏をご進言いたします。あいつと戦って勝ち目はありません」
「なんだと? 仮面サイダーに降伏しろと言うのか?」ジャドー将軍は大きな声を出した。「そんなことはわしが許しても死んでいった兵隊が許さんだろう」
「閣下、これ以上は無駄な抵抗です」と煉獄大使。「戦ってもやつに殺されるだけです。床に手をついて土下座すれば、やつも許してくれるかもしれません」
「そうかな。しかし……」将軍は言いよどんで「あれ? 手紙には朝十時にくると書いてあったな。もうそろそろ十時だぞ」
「妙ですね。いや、この手紙が書かれたのは昨日ではありません。何日か前です。ということは……」
 ジャドー将軍の顔に邪悪な笑いが広がっていった。
「フハハハ、仮面サイダーめ。口ほどにもないやつだ。偉そうなことをうそぶきながら、わが城に入れなかったんだろう」
 その時、ベルが鳴った。城のそとにある郵便受けになにかが投函された合図だった。煉獄大使は一礼してとりに行った。
 やがて煉獄大使は金属製のお盆に封筒をのせて運んできた。
「閣下宛てに手紙が届きました」
 ジャドー将軍は不審がりながらペーパーナイフで封筒を切り、中身をとり出してひらいた。

ジャドー将軍殿

 このたび、わが畏友であり同じ格闘技道場「虎の穴」で学んだ兄弟子である仮面サイダーが、病に倒れ、不本意ながらに世を去った。(ジャドー将軍いわく「やったあ、ざまあみろ、悪は必ず勝つ」)悪性リンパ腫に罹ってたったの三日で逝去した。返す返すも惜しいことだ。(ジャドー将軍いわく「リンパ腫に乾杯」)
 貴殿らジョーカーを滅ぼすのが畏友仮面サイダーの使命であり、責務だと信じていた。及ばずながらこの私が畏友の信念を受け継いで、貴殿の城に乗り込む所存だ。
 いや、もうすでに乗り込んだ。この手紙を投函して間もなく、私はジャドー城の地下道に潜入している。首を洗って待っていろ。

           仮面サイバーより

「なんだ、こいつは?」ジャドー将軍は興奮して「仮面サイダーの代役か? もう城の地下道に潜入している、だと?」
 その時、またベルが鳴った。煉獄大使が首をひねりながら出て行った。なかなか帰ってこなかった。やがて煉獄大使は金属製のお盆に手紙をのせて姿を現した。
「閣下。また手紙です」煉獄大使は言った。「閣下にはわたしから手紙をお読みいたしましょう」
 煉獄大使は便箋をひらき、読み上げた。

将軍閣下、ならびに煉獄大使殿へ

 親愛なる秘密結社ジョーカーの代表・ジャドー将軍閣下と幹部の煉獄大使殿にお伝えします。先ほど、私が法定手続きを請け負った仮面サイバー氏が不慮の死を遂げました。
 死んだ場所は閣下の住まわれるジャドー城の廊下です。お城の廊下に仕掛けられたあの荘重な罠『鉄の童貞』……これが床にしつらえたスイッチを押すとひらかれた巨大なアゴが急速に閉じて無数の剣が内側にいた者を串刺しにすることは申すまでもなくご存じでしょう……に仮面サイバー氏は勇猛果敢に挑まれました。仮面サイバー氏はいまは亡き仮面サイダー氏の弟弟子に当たり、彼の身体能力は仮面サイダー氏にまさるとも劣りません。鉄の童貞がその牙を閉ざした瞬間、仮面サイバー氏はひらりと宙に舞い上がり、罠をかわして離れた地点に着地していたのであります。
 ところが、なんという不運でしょう。仮面サイバー氏はマントの裾を鉄の童貞の刃に咬まれていたのです。そのことに気づかず歩き出した仮面サイバー氏は、もんどり打ってその場に仰向けに倒れ、倒れた拍子に打ちどころ悪く後頭部をしたたかに打ち、昇天してしまったのであります。

「実際この通りでした」煉獄大使が口を挟んだ。「仮面サイバーらしき男が廊下にだらしなく伸びていました。まだ死体は片づけておりません」
「しめしめ。うまく行ったではないか」ジャドー将軍が言った。「間抜けなやつだ。これで敵は消えたな」
 ジャドー将軍はもう少しで喜ぶところだった。煉獄大使が言った。
「閣下。この手紙にはつづきがあります」

 仮面サイバー氏亡きあと、ジョーカーの拠点へ乗り込む勇気ある戦士は見当たりません。ですが私は仮面サイバー氏の法定代理人でありまして、氏が生前、もしも氏の身に大事が生じた場合、履行すべき条項について契約しております。その契約条項は通常第三者に秘匿すべきものでありますが、状況をかんがみて打ち明ける次第であります。
 仮面サイバー氏との契約条項は『一、仮面サイバー氏が世を去っても秘密結社ジョーカーは滅ぼすこと』『二、仮面サイバー氏亡きあとは代理人により使命を果たすべきこと』『三、氏の代理人はその責を果たしうる能力もしくは立場にいる者に一任すべきこと』です。
 第三条をよくよく考えた結果、私はジョーカーで将軍閣下の側近を務める煉獄大使氏に仮面サイバー氏亡きあとの代理人を任ずることにいたしました。心苦しい義務なのですが、煉獄大使氏に故人の遺志を継いでいただくようご通達いたします。

            法定代理人より

 ジャドー将軍はポカンとしていた。
「どういうことなんだ?」
「いえ。いま読み上げた通りでございまして」と煉獄大使。
「わけがわからん」ジャドー将軍は言った。「まさか、お前が仮面サイバーの遺言を受けてわしを殺すつもりじゃないよな?」
「いいえ、閣下」煉獄大使は答えて「先ほど、この城の地下に時限式の爆弾を仕掛けたところでございまして。爆発すると城の土台の崖もろとも崩れ落ちて海のもくずになります」
「ば、バカな冗談はやめろっ」ジャドー将軍は言った。「ジョーカーだからって冗談にもほどがある」
「いまがまさに時限でございまして」煉獄大使は腕時計を見て言った。
 轟音とともに激しい揺れがおそってきた。






 小説を書かずにこんなことばかり書いている。
 小谷野敦が編んだアンソロジー本に『童貞小説集』というのがあり、昔読んだ作品もあったが、パラパラ読んでみた。主人公が全員童貞の男性という異色のアンソロジー。ただ、収録作は抄録が多い。武者小路実篤の「お目出度き人」などはバッサバッサ切り落として筋だけ追えるようにしてある。
 いずれも童貞の男性が女性とヤりたくて懊悩する話を扱っている。ヤりたい以前の現実的な懊悩がまずある。いかにして好きな女性と仲良くなるか、だ。このアンソロジーに収められた諸作の主人公はみな童貞だからして、女性を口説いたり近づいたりするのが苦手である。意中の女性に不器用にアプローチするのが笑える。
 童貞のキャラクターたちを笑う僕が口説き上手なわけでは決してない。僕の口説きの力は薄弱である。本当はあまり口説きたくもない。口説く行為は滑稽であるからおもしろいとは思うが。
 武者小路実篤の「お目出度き人」。主人公は二十代後半の童貞である。武者小路実篤本人がそうで、実体験談を小説化したものかは定かでない。実話を素材にしたものだとしたら、意中の親類の女性を親友の志賀直哉にかっさらわれたせいで童貞時代が長引いたのだろうか。
 主人公は近所に住む鶴という十代の女の子が好きになる。まだ女学校に通っている。鶴の年齢は書いていないが、文脈を読む限り、十六、七ではなかろうか。主人公は知人のツテに頼って鶴に求婚するが、断られる。女学校を卒業して兄が結婚してからじゃないとまだ結婚は考えられないとの返事。
 主人公は鶴をあきらめられずに二度三度と求婚する。いずれも知人を介しての申込み。それが当時の習慣だったのか知らないが、お見合いもせずに結婚を申し込んでいる。主人公は鶴に再三断られる。
 求婚する前に鶴と仲良くなる努力をすればいいのにと思うが、しないのが不思議である。そこが童貞の童貞たるゆえんかもしれない。好きな相手に気に入られずに結婚できるなんて、どうして思えるのだろう。
 結末はネタバラししないでおくが、「お目出度き人」の主人公は鶴を手に入れたくて悩みつづける。その懊悩ぶりは気の毒なぐらいだが、なぜいきなり結婚したいと思うのかがやはり解せない。

 ここからは男女関係についての私見になる。
 男性が性欲から女性を手に入れたいと思い、あれこれ画策したり、場合によっては有力な立場を利用し女性にセクハラして不祥事をやらかすケースがある。セクハラの内容は様々だろうが、なかにはレイプに近いものもあるだろう。
 電車など公共交通機関のなかで女性に痴漢を働く男性もあとを絶たない。
 世の多くの男性は男女の性関係、性交渉を男性側の欲求でのみ捉えがちだ。「お目出度き人」の主人公もまさにそうで、タイトル通りおめでたい男といえる。
 異性の欲求に立って男女関係を認識するのは確かに難しい。僕も女性の欲求に立つことはほとんどできないので、想像するしかない。
 だがこういうことはいえる。
 まず性欲の正体は生殖欲であること。人間が自然から与えられたのは同じ生物種の人間を増やすために生殖を促されていることだ。ところが多くの人々は生殖のためでなく、快楽のために性交渉している。女性が妊娠しないように避妊することが多い。
 子供をつくらない目的でヤるのは本末転倒である。性交渉が快感を伴うのは快感で性交渉する頻度を高めて生殖の機会を増やす自然の狡知であるのに、子供ができないように工夫しながら性交渉している。それが常態化している時点で、人類は自然からかけ離れた特殊な価値観をもっているというべきである。
 僕はなにも倫理的見地からカトリック教徒のような主張をしたいのではない。
 生殖を促すために自然から与えられた欲求である性欲は、その本性からして、女性のためにある。子供を産むのは女性だからである。したがって性交渉も女性のためにやることである。
 そのように考えざるをえない。男性は性交渉を通じてスファチム(イタリア語※)を出す。それが女性の胎内で卵子と結合すれば赤ちゃんが生まれる。
  ※日本語や英語、ラテン語のよく知られた語を記すとブログで閲覧禁止になる恐れがあるため。
 しかしスファチムを出すだけで、男性はそれ以外の機能をもたない。せいぜい女性に快感を与えるように努めるのが関の山だ。それも女性のために行う行動である。
 だとしたら、男女の性関係はもっぱら女性が中心になって成り立つことで、男性は女性のためにそうするだけといえる。
 男性が女性に言い寄って口説くのは女性にとってだけ必要な行動であり、女性がその気にならなければ男性はおとなしく引っ込むしかない。女性は駆引きが好きだから、拒むフリをしてる場合もある。その場合はひきつづき口説いたほうがいい。
 いや、僕は女性の口説き方講座をしているのではない。ここで言いたいのは、男女関係は女性のためにあるのだから、男性の主観的な欲求と思考だけでそれを求めるのは無意味だということだ。
 無意味かもしれないが、自分は女好きであるから女性を求めるのはどうしようもない、という男性もいるだろう。僕は道徳を説いているわけではないから、そのへんはご自由にどうぞといっておく。ただ男性が男女の性関係において果たす役割は補完的なもので、女性のために果たすのだというのが事実なのである。
『童貞小説集』の童貞たちは生殖欲を男性の観念に変換して思い悩んでいる。本来、悩まなくていいことを思い詰めている。
 僕が自作の小説に性愛シーンを描写する時は、以上のごとき発想に基づいている。だから性描写が露骨でいやらしいとしても、拙作中の性愛行為は女性のためになされることである。ゲーテの「ウェルテル」のような強い恋心をもった男性キャラクターには大して関心を抱けない。そもそも男性の恋心は恋心であろうか。所有欲や独占欲に近しいもので、それらが生殖欲を伴って顕れたものではないか。どうもそう思えてならない。
 恋は女性のために存在している。






 少年スクイドは家の食卓で目玉焼きをつついている。目玉焼きには塩コショウをたっぷりかけてある。黄身は半熟。黄身だけを口に運ぼうとしてフォークからツルンと落とす。黄身は皿に落ちてはぜる。ドロリと皿を汚す。
「あーあ、黄身が割れちゃった」スクイドは残念そうに言う。「でもこうすれば食べられるんだもんね」
 スクイドはパンをちぎって皿にぶちまけた卵の黄身をつけて食べる。黄身のついたパンを口に運ぶ。美味い。
 スクイドの家の食事部屋の窓から隣家の食事部屋の窓が見える。隣家の少女が少年の家の食事部屋の食卓とそっくりな食卓に向かって腰かけている。少女は牛乳が入ったコップを手にもち、ゴクゴク飲む。
「男の子の美味しいミルク」少女はコップを卓上に置いて言う。「わたしたちはゴクゴク飲んだ」
 窓から見えるのでスクイドは少女のそのセリフを聞いて聞き捨てならじと窓から顔を出す。スクイドは少女を呼ぶ。
「ねえ、いま言ったの本当?」
 スクイドが質問すると少女はニヤニヤして胸を反らす。
「さあ、どうかしら」少女はまたコップのなかの牛乳を飲む。「飲んでるかも。でもあんた以外の男の子のミルクかも」
「そんな。そんなこと言うなよ」スクイドは急に哀しげな顔つき。「ぼくのミルクだけ飲んでおくれよ。ぼくはきみを愛しているんだから」
 少女は窓のほうへ向き直る。
「スクイド。あたしを愛しているのなら、太陽と月レースで優勝してちょうだい」少女は言う。「レースに優勝したらあんたのミルクを飲んであげる」
「本当かい?」スクイドは嬉しそうに顔をほころばせて「ぼく最近ミルクが溜まってしょうがないんだ。なぜならきみがヤらせてくれないからだ」
「いやらしい。でもいいわ。優勝したらヤらせてあげる」
「イヤッホー」
 スクイドは歓喜の叫び声を上げて窓から飛び出す。隣家の窓から隣家の食事部屋にジャンプして入り込む。食卓に向かい座っている少女の身体を抱きしめる。
「こらこら」少女はたしなめる。「まだダメよ。優勝したら、よ」
「わかっているよ」スクイドは抱きしめた手を離す。「でもどのみちぼくらはヤることになるんだ。ぼくはきっと優勝するよ」
 少女の肩に両手をのせてスクイドは宣誓する。少女の母親が食卓を挟んだ向かいに座っている。
「ぼくは必ずや太陽と月レースで優勝者になります」スクイドは言う。「そして優勝者になった暁、お嬢さんとヤッてぼくのミルクをゴクゴク飲んでもらい嫁にもらいます」
「あら、そう」少女の母親が笑って言う。「頑張ってね」
「頑張ります」スクイドは少女の肩から右手を離し、窓のそとのお日様を高く指さす。「あの太陽を目指してぼくは飛ぶんだ。鳥になるんだ。だれよりも速い鳥に」
 窓のそとを薄汚れた風体の男が通りかかる。スクイドたちが家の食事部屋にいるのを見て声をかける。
「ウンコはないですか?」男は背中にポリバケツを背負っている。ポリバケツは、とても臭い。「ウンコかオシッコありませんか? 無料で引きとりますぜ」
「汚穢屋さんね」少女の母親が言う。「はい、ありますよ。引きとってくれます?」
 男は手揉みしながら「ありがたいこってす。どうかお願いします」と言う。
 少女の母親は食事部屋の横の便所からおまるを運んでくる。
「どっさりあるのよ。ざっと三日分」
 少女の母親はおまるの陶製の蓋をあけて中身を見せる。茶色い大便に混じって黄色い小便が溜まっている。
「オシッコはないんですかい?」汚穢屋はおまるを受けとってポリバケツにぶちまけながら「小便壺はありませんか?」
「うちは分けて使ってないの」
 すると少女がもじもじして言う。
「さっきミルク飲んだせいかな。お腹ゴロゴロしてきちゃった」少女はお腹を押さえて「ウンコ出そう」
「じゃあ、じかにどうぞ」
 汚穢屋はポリバケツを窓のへりにくっつける。少女はスカートをめくって下着を脱ぐ。窓からお尻を出すと、汚穢屋のポリバケツに思い切り排便する。ブリブリ音がしている。タール状の便が少女のお尻から噴出する。スクイドは窓から覗き込んで少女のお尻を見る。
「いっぱい出たねえ」
 スクイドはそう言い、腕を回して少女のお尻を支えると濡らした紙で少女のお尻の穴を拭いてやる。汚穢屋はポリバケツに蓋をしてお辞儀して去る。家の角を曲がると畑があり、農夫が鋤を担いでいる。汚穢屋は農夫に話しかける。
「ウンコとオシッコいらんかね」
「もらっとこう」農夫は答える。「肥やしが残り少ないんでね。全部もらおう。銀貨でいいかい?」
「はい、大助かりです」
 スクイドは少女の家を出て隣の自宅に帰る。階段を駆けのぼって屋根裏部屋へ上がる。屋根裏部屋には翼を生やした機体がある。機体は細く、スクイド一人がまたげるだけの棒で、途中で幅が変わるシーソーといったところ。機体の前面にはプロペラがある。
 スクイドは屋根裏部屋の壁についたハンドルをグルグル回す。すると屋根の頂点の三角形に隙間ができる。屋根はゆっくりとひらき始める。すっかり空が露わになるとスクイドは機体にまたがる。スイッチを押す。プロペラが唸り出す。スクイドはまたがった機体についたハンドルをしっかり握り、屋根裏部屋の壁を蹴る。すると機体が浮上する。
 スクイドは空へ飛び出す。
 家のそばの畑のへりで何人かの人たちが集まって話している。飛行するスクイドは上空からその様子を見下ろしている。ブーンとプロペラが唸る。スクイドは翼の角度を変えて下降する。
 着地はいつも難しい。機体の向きを整え、プロペラの威力を弱めると着陸体勢に入る。機体は畑のへりに近い原っぱに着陸する。スクイドがまたがった機体の下部についた車輪が地面をガリガリこする。
 畑のへりにいた人たちがみんなスクイドを見る。
「スクイド、太陽と月レースに出るの?」
「ああ、出るよ」スクイドは答える。「出るもなにもぼくは優勝候補だよ」
「まさか」一人が言う。「優勝候補は大工のリリエンタールだろ」
「自転車屋のライト兄弟も手ごわいぞ」
 スクイドは自分など下馬評に挙げられていないことに憤慨する。
 すると、原っぱの一隅で奇妙な姿勢で倒れている少年がいるのを見つける。その少年は身体にぴったりした小姓らしき服装で足のところで裾をとめたズボンをはいている。だが少年の足は上を向き、頭は地面に向いている。すなわち逆立ちの姿勢で両腕を大の字なりにひらき、胴体を細長い棒で支えている。
 よく見ればその棒はスクイドがまたがっている機体と同じ形をしている。
「なにをしてるんだ?」スクイドが不思議に思って少年にきく。「逆立ちの練習かい?」
 逆さまになった少年は逆さまのままで答える。
「これは明日のスクイドだよ」
「どういうこと?」
「明日の太陽と月レースでスクイドはこうなるってこと」少年は言う。「空から機体ごと墜落して哀れお陀仏、土に還る」
 スクイドは腹を立てる。原っぱのあちこちで少年と同じように機体にまたがって逆立ちしている人がいる。中年のおじさんが逆立ちしている。機体に幟を立てている。幟には「あゝ哀れリリエンタール」と書いてある。別の一人はやはり同じ体勢で倒立しながら「ライト兄弟の最期」と書いた幟を立てている。
 こいつらはレースの予想屋らしい。墜落を予想されているのが自分だけでないことにスクイドはひとまずホッとする。元気が湧いてくる。スクイドはスイッチを押してプロペラを回す。浮き上がった機体を地面を蹴って発進させる。スクイドは飛び上がる。スクイドは畑をぐるりとめぐって家に帰る。
 機体から降りて屋根裏部屋の壁についたハンドルをグルグル回す。屋根がうごいて塞がってくる。空が狭まる。なおもハンドルを回す。屋根がすっかり頭上を覆い隠し、空が見えなくなる。
 スクイドは寝室で眠りにつく。レースに優勝して隣家の少女とヤる夢を見る。快感のあまりに膨らんだ器官がビクビクうごいて、朝、下着の前を汚す。スクイドは湿った下着をはき替えながら、この液体が少女への熱い思いだと考えてじーんとする。
 食事部屋へ降りて窓から隣家を眺める。少女が隣家の食事部屋で牛乳を飲んでいる。少女は牛乳の入ったコップを食卓に置いて言う。
「男の子の美味しいミルク、わたしたちはゴクゴク飲んだ」
 スクイドは窓から身を乗り出して少女に挨拶する。
「おはよう。今日は待ちに待った太陽と月レースの日だよ」
「おはよう。スクイド」少女も挨拶する。「いよいよ今日がレースね。緊張しないでね」
「緊張するもんか。ぼくは余裕で優勝するよ」スクイドは胸を張って「優勝したら約束通りヤらせておくれよ。それからぼくのミルクもゴクゴク飲んでおくれよ」
「もしスクイドが優勝したら、ヤらせてあげるわ。あんたのミルクも飲んであげる」
「よし。ぼく絶対優勝するよ」
 スクイドは興奮して屋根裏部屋へ上がる。壁のハンドルをグルグル回す。屋根がひらく。スクイドは機体にまたがりスイッチを押す。プロペラが回転して機体が浮く。部屋の壁を蹴って真上の空へまっしぐらに飛び上がる。
 家のそばの畑のへりにすでにレースの出場者が集まっている。スクイドは畑の上空を旋回するとゆっくりレース会場である畑のへりに着陸する。
「リリエンタール、リリエンタール。リリエンタールが堅いよ」
「ライト兄弟、なんたってライト兄弟だよ」
 予想屋たちが声を張り上げている。
「大穴、スクイドの坊やはいかがかな。オッズの倍率最高だよ」
 予想屋の一人がスクイドの名を呼ぶ。どうやらスクイドはレースで人気最下位らしい。スクイドはそんな予想を聞いても気を挫けずに鼻息を荒くする。なんとしても優勝するんだ。この戦いは恋のための戦いなんだ。
「位置について」審判が言う。「用意」
 レースする操縦士はみんなプロペラのスイッチを押す。
 審判がスタートの合図のピストルを空に向けて撃つ。
 みんな一斉に飛び立つ。スクイドも飛び立つがほかの機より少しだけ遅れる。遅れをとり戻そうと焦燥する。いちばん先頭を飛ぶのは人気のリリエンタール、次がライト兄弟だ。スクイドは風を切り、むしろ風になって速度を上げてゆく。
 全機が上空でクルリと旋回する。旋回しないといけない決まりになっている。スクイドも遅れまじと旋回する。それから下降、ついで上昇。スクイドは下降で速度を増してほかの機を追い抜く。上昇でも速さを保ったままほかの機に追いつかせない。
 鳥だ、本物の鳥だ。敵をみなぶっちぎったことにスクイドは興奮している。鼻血が出そうになる。機体のエンジンは心地よく唸りを上げ、絶好調だ。地上に描かれたゴールラインが見えてきた。着陸していちばん先にゴールラインを越えた者が優勝となる。スクイドは機体を下降させる。
 気になってチラッと後方を振り返る。リリエンタールがぴったりスクイド機にくっついてくる。クソ、しぶといな。スクイドは舌打ちする。もうゴールだ。スクイドは着陸に備え減速する。だがあまり速度を落とすと土壇場でリリエンタールに抜かれる恐れがある。
 スクイドは賭けに出る。減速せずに地上に突っ込む。機体を着陸体勢にもち込む。車輪がガリガリと地面をこすってゴールラインをザッと割り込むはずだ。
 スクイド機は地面に車輪の一部がつく瞬間に機体がもち上がる。つんのめって前方にでんぐり返る。勢いよく宙返りして逆さまになり、機体はゴールラインの手前で転覆する。操縦士のスクイドを大地に放り出す。
 スクイドは機体から離れたところでうつ伏せに倒れている。もうピクリともうごかない。体内の臓器があちこち破れ、骨がバラバラになっている。心臓の鼓動が徐々に弱まってゆく。
 スクイドは虫の息で思う。ぼくはこの星につくられたんだな。だからこの星に引っぱられて終わるんだ。ぼくはこの星の息子だ。土の匂いがスクイドの鼻に入ってくる。残る力を振りしぼって匂いを嗅ぐ。