この稿のはじまりは先日の日曜日の午後にさかのぼる。東京都に住む中年男ドム氏は午後、遅い昼食をとろうと都内某所にあるファミリーレストラン(いわゆるファミレス)に入った。ランチタイムの混雑を避けて入った店内は、日曜日のせいで、わりと混んでいた。とはいえ空席が見当たらないほどではない。
 ドム氏はファミレスの入口をあけてなかに入り、キャッシャーの前で店員がくるのを待っていた。ふつうこの手の飲食店では店員が来客を迎えて、喫煙席か禁煙席かの希望をきき、しかるのちに席まで誘導するしくみになっている。店員がくるまで勝手に好きな席へ行って陣取ってはいけないだろうとの判断が経験則から働く。
 ところが待てど暮らせど店員がこない。
 業を煮やしたドム氏は店員の誘導を待たずに勝手に席を選ぶことにした。やや空いた一隅の席に座って、傍らに挿してあるお品書きをひらいた。これにするかと決めてテーブルにあるボタンを押した。すると、今度こそ店員がきた。
 若い女性の店員だった。丸い顔に細い目をしていた。
「すみません。お待たせいたしました。いまお冷やとオシボリをおもちします」
 店員はマニュアル通りにそう言った。
 ドム氏はお品書きをひらいていたので、そのまま注文の所作に入った。
「サーモンとアボカドのサラダごはん。ドリンクバーつきで」
 ドム氏は注文した。
 注文して間もなく、ドム氏は自分が座った席が喫煙席であることに気がついた。左隣の席のおじさんがタバコを吸っているのが目についたからだ。ドム氏はタバコを吸わない。したがって座るのはいつも禁煙席である。
 ドム氏は店員を再び呼び、禁煙席に移らせてもらおうかと思案した。でもそうすると、おそらくさっきの店員が伝票を差し替えなくてはならないだろう。店の都合など知ったことかと断行する人はいるにちがいない。だが、残念なことにドム氏は公衆のいる場所では紳士らしくふるまいたいという虚栄心が働くタイプだった。
 ドム氏は喫煙席で我慢することにした。ほどなく、先ほどの店員が頼んだ料理を運んできた。ドム氏は押し黙って店員に皿を並べさせた。無愛想に一言返事をして、店員をさがらせた。紳士らしく見せかけようという心理はどこかへ消え去り、いまのドム氏の心を占めているのはあのうすのろの店員に自分が少々意地悪な人物だと思わせてやりたい気持ちと、自分が興味があるのは一身上のことについてで、この店の店員にはまったくないことを無言で示してやることだった。
 以上の経緯はこれから述べようとすることとはなんの関係もない。だが以下に述べるのはドム氏こと筆者がそのファミレスで供された料理を食べながら考えたことである。サーモンとアボカドのサラダごはん、この料理はボリュームたっぷりでなかなか美味しかったから、料理にケチをつけるつもりはない。

 小説は文学の一ジャンルである。小説のそのまた下位ジャンルに、推理小説、SF、時代小説、ホラー小説などなどがある。それらのなかにはジャンルの決まり事があり、作家たちがそれを厳重に守っているものもある。
 ところで、いま挙げた下位ジャンルの全部は日本ではエンターテイメント(娯楽小説)または大衆文学と呼ばれるものに類している。セシル・サカイ著『日本の大衆文学』(一九九七年)によれば、大衆文学という呼称が定着しはじめたのは一九二五、六年頃、すなわち昭和のはじめ頃である。
 なぜ「大衆文学」という新たな呼称の文芸作品群が生まれたのか。理由はそれに先立って「純文学」が存在したからである。正確にはのちに「純文学」と呼ばれるようになる文学的傾向が。
 筆者は大学で解釈学を専攻した人間で、書誌学や文献学には疎い。したがってそれらが台頭した詳しい経緯は省略させていただく。ここで強調しておくのは志賀直哉や芥川龍之介らは大正時代初頭から活動しており、彼らにわずかに先立つ形で自然主義文学がはじまっていたことだ。
 自然主義の出現後、私小説や心境小説が現れた。志賀も芥川も私小説、心境小説を手がけている。そういうものを概括して「純文学」と呼ぶようになった。大正年間の出来事である。
 この「純文学」と対になるかたちで「大衆文学」が生まれたのだ。それらは日本における小説の大別とされている。「純文学」や「大衆文学」は、推理小説やSFがそうであるような小説の下位ジャンルなのだろうか。いまのところ、その二つは小説の下位ジャンルだと思われていない。事実はさておき、文学界の通念においては。

 大衆文学はちょっと古くさい呼称だと思う人が今日には多いだろう。大衆、という言葉は昭和の流行り言葉で、現在では大衆食堂とか大衆割烹とかの一部の昭和レトロな飲食店に使われているだけだと感じる人は多い。筆者がこないだ食事をしたファミレスは大衆食堂ではない。利用客は大衆と言って差し支えないはずなのだが。
 そこで昨今では娯楽小説、あるいはエンターテイメント小説という英語由来の言葉を使うことが多い。これらの語は新たに誕生したジャンルを指すものではない。大衆文学の言い換えであり、同じものを別な呼び方で呼ぶようになっただけだ。
 それなら昔ながらの大衆食堂をファミレスと呼んでもいいはずだが、なぜかそうならない。
 この大衆文学あらため娯楽小説ないしエンターテイメント小説と、純文学とが、日本における小説の傾向の大きな区別とされている。これは純文学との対比から生まれた区別にすぎない。そしてその両者を区別したのは菊池寛をはじめとする大正末から昭和初期の文学者である。
 ここでもう一度問うことにする。純文学は小説の下位ジャンルではないのかと。

 純文学のはじまりは先述した通り自然主義文学であった。まだ当初は「純文学」という呼称は一般的でなかったと思うが、自然主義こそが当時考えられた文学の模範であり、文学の最先端とされた。
 自然主義が興隆してから私小説が出現し、流行るまでは筆者の認識では数年かそこらしか経ていない。自然主義作家の田山花袋が書いた『蒲団』なる小説の題材が作者自身の実生活であったことから、自然主義文学から私小説が生まれ出たとする意見がある。いや、そうではないとする意見もある。どっちだろう。
 どっちだっていい。『蒲団』も私小説も同じ傾向をもっている。田山花袋は『蒲団』で自分の実生活を題材にしたが、なぜそうしたのか。私小説家がやはり自分の生活を反映した内容の作品を書いたのはなぜか。こうした事態は外国では起きていない。日本にだけ起きたことだ。
 私小説は大正末期までに下火になった。一部の作家は昭和期以降も書き続けたが、私小説を書かない作家たちも含めて、純文学作家の作品には今日に至るまで固有の特徴がある。それは、書かれた作品に作者とその作品を書いた事実の鏡写しの関係が影を落としていることだ(正確に写す鏡かどうかは関係ない、写っていればいい)。逆に言えば、純文学の小説は作者と切り離して考えることが難しい。
「この小説を書いた○○氏」を考慮せずに純文学を評することは実は稀なのだ。
 なぜそうなっているのか。答は一つしかない。純文学が作家の自己救済を目的とした文学傾向だからである。
 自己救済する動機に基づいて書かれたのが純文学であり、大衆文学=エンターテイメント小説は「それ以外」なのだ。エンターテイメント小説に自己救済動機が含まれていることは少ない。
 昭和初期に成立した「純文学」と「大衆文学」の区別とは、「自己救済文学と、それ以外」の区別にほかならない。今日でも純文学作家は自己救済動機を宿した小説を生産しつづけている。
 昭和期の作家を振り返ろう。安部公房は「壁ーS・カルマ氏の犯罪」という奇妙な小説で芥川賞を受賞したが、この小説は宇野浩二をはじめとする芥川賞選考委員にはなはだ評判が悪かった。宇野浩二が貶した理由はこの作品に自己救済動機が薄弱だからだろう。
 ところが安部公房が長編小説『砂の女』を発表すると、世評が上がった。映画化されて有名になったばかりでなく、安部公房の文学的評価が高まった。『砂の女』や、それにつづく『他人の顔』『燃え尽きた地図』などはSF的とか推理小説的と評されることもあるが、私見ではこれらの小説が高評価を受けたのは主として自己救済動機で書かれた作品だからである。
『砂の女』の主人公は都会から僻地へ出かけ、砂に囲まれた集落で脱出できなくなり、集落民の女と夫婦になり、自らは失踪を遂げることに成功する。この内容的プロセス、僻地へと失踪を遂げた主人公とともに、作者は砂のなかよりも窮屈な都会の社会生活から自己を救い出すことに成功している。安部公房は純文学になったのだ。
 近年作家デビューして芥川賞受賞作『火花』がベストセラーになったお笑いタレントの又吉直樹も、『火花』で実現したことは芸人として成功するまでの苦楽のプロセスを通じての自己救済である。この作品は自己救済動機で書かれたもので、それゆえに芥川賞選考委員にもすんなり受け入れられたのだろう。まがいもなく純文学だと理解されたわけだ。
 自己救済こそが高級な文学的主題だと思われた時代に「純文学」はできあがった。いまはどうか知らない。だが、このような偏った特定の動機で書かれた小説を一つの下位ジャンルに等しいものと見なさないのは不合理である。
 筆者も小説を書いているが自己救済動機では書いていない。したがって筆者の作品は純文学のカテゴリには入らない。
 だからといって、純文学=自己救済文学はすべて退屈で無価値だなどと言うつもりはない。過去の純文学作家で優れた人は、志賀直哉にしろ谷崎潤一郎にしろ、また古井由吉や中上健次にしろ、自己救済以外の要素が面白い。要するにこのジャンルの決まり事と積極的に関係しない部分によって卓越した小説家たりえている。そのことはハッキリ言っておく。
 純文学とエンターテイメント小説の区別が「自己救済文学と、それ以外」にしか基づかない以上、この区別には意味がない。この区別に意味があると考える人は文学で自己救済することに意味があると思っている。もう『蒲団』から百年以上経っている。そろそろ気づいてもよさそうなものだ。純文学作家たちは自分の店が大衆食堂でもファミレスでもない、自己救済レストランという風変わりな飲食店であることを知らずにメニューを提供していると思う。







  滋養強壮の章

 ピータン夫人は実家にいた。片田舎の古い家で、母親が庭仕事をしていた。春ともなればモクレンが咲き、名前の知らない草花が咲き乱れる。母親はもうトシだから、ゆっくり庭を丹精する。
 ピータン夫人は庭仕事に関心なさそうな顔つきで庭に出た。焼けつくほどの陽射しではないが母親は麦藁帽をかぶり、首に手拭いを巻いて作業している。ピータン夫人が歩いてくると母親は言った。
「ミラ、あんたも庭仕事を手伝ってくれるのかい?」
 きかれてピータン夫人は首を振った。
「いいえ」
「じゃあなにしてるの?」
「庭に立っているのよ」ピータン夫人は答えた。「座ってるように見える?」
 母親はかぶりを振って作業に戻った。
「むかしから変わった子だと思ってたけれど、変わってるところはぜんぜん変わりやしない」
 母親が植込みにかがんでブツブツ呟くと娘のピータン夫人が口をひらいた。
「いまなにか言った?」
「いいや。なにも」母親は答えた。「あんたも旦那さんをほったらかしてこっちでブラブラしてていいの? 旦那さんとミウちゃん、不便してるんじゃない?」
「大丈夫よ」ピータン夫人は答えた。「ミウはもう高等学校だし、見かけよりしっかりしてるもの。それに執事のヴァンサカがいるから家のことは心配ないわ」
「家のことを人に押しつけてるだけじゃないの。あんた」母親は呆れた。「ピータンさんとミウちゃんが気の毒だわ。ブラブラしてないで、うちにいるのなら庭仕事でも手伝ってちょうだいよ?」
「いやよ」とピータン夫人。「やったことないもの」
 母親は肩をすぼめた。
「ちっとも難しくないから、少しぐらい手伝ってよ。ホラ、そこのモクレンを……」
「モクレン?」ピータン夫人は庭の草木をキョロキョロ見回した。「どれがモクレン?」
「その木に決まってるでしょ。ミラ、モクレンも知らないの?」
「教わったことないもの。あ、そうだ。わたしミウを誘ってドジョウ池へ行かなくちゃいけないわ」
「ドジョウ池?」と母親。「どこだい? なにをしに行くの?」
「ピータンの屋敷の近所にあるのよ」ピータン夫人は答えた。「池のはたでヘレヘレしに行くの」
「ヘレヘレってなに?」
 母親にきかれてピータン夫人はニンマリと微笑した。
「なんだっていいじゃない」
「旦那さんの家へ戻るのかい?」
 ピータン夫人は首を振った。
「あの人にはまだ会わないわ」ピータン夫人は言った。「ミウを誘い出すだけ」
 ピータン夫人が口にしたヘレヘレの意味はだれにも永遠にわからない。


  ……の章

 ピータン氏は自宅のなかを歩いていた。一人娘のミウがいないことに気づいた。使用人のヴァンサカが廊下をやってくる。今日はきちんと執事服を着ていた。ピータン氏はヴァンサカに話しかけた。
「ミウがいないようだが、どこへ出かけたか知ってるかね?」
「なんでも奥様とドジョウ池で落ち合うとおっしゃっておりました」ヴァンサカが答えた。
「ドジョウ池?」とピータン氏。「そんなところへ行ってなにをするんだ?」
「なんでも奥様とヘレヘレするんだそうでございます」
「ヘレヘレってなんだ?」
「わたくしにはわかりません」
「……妻はこっちのほうに帰ってきているのかね?」
「どうもそのようです」ヴァンサカは主人の顔を見た。「ご主人様。奥様とお会いになりたいですか?」
「いや……ぜひともってわけではない」ピータン氏は言葉を濁して「でも、ミラのやつ、こっちのほうにきてるならわが家に戻ってもよさそうなものだがな」
「奥様の滋養強壮はおすみになられたのでしょうか」
「さあ、どうだろう。しかし池なんかへ行くなんて暇人くさいな」
「お嬢様と奥様は池に行ってヘレヘレするのです。断じて暇人ではございません」
「だから、そのヘレヘレってなんだ?」
「わかりません」
「……」
「……」
 ヴァンサカは急に思い出したらしく手をひとつ叩いた。
「そういえば、お嬢様はドジョウ池でヘレヘレしたあと、奥様と別れて男子とデートなさるとおっしゃってましたな」
「ふうん。そう」ピータン氏は気のなさそうな返事をしてからやっと聞いたことに気づいて「なんだと? ミウが男とデートするだと?」
「男子とおっしゃるからには、男でしょうな」とヴァンサカ。「女ではないとわたくしは思います」
「ただごとではない」ピータン氏はうろたえた。「ミウに男が……いや、どんな仲なのか、どこまで進んでいるのかわからないから心配しても仕方ないが……」
「男女の一線を越えてしまっていることも考えられますな」とヴァンサカ。
「冗談じゃないっ」ピータン氏はかぶりを振って叫んだ。「わしのミウが……ミウには早すぎる。まだ子供じゃないか」
「お嬢様はいつまでも子供のままではございません」ヴァンサカが言った。「もう十六歳におなりですから。お若いことはお若いが、ぼちぼち子供を産める年頃です」
「身体は大人同然でも、あいつの頭のなかはまだ子供だ」ピータン氏は息巻いた。「いやらしい男にかどわかされて妊娠なんかしたら……苦労するのは女だってのに」
「してるかもしれませんなあ」
 ヴァンサカの言葉にピータン氏はまなじりを上げて、
「してるって、なにをしてるんだ?」
「いえ、それはわかりません」
「……」
「ドジョウ様はお嬢池でヘレヘレしたあと、学校の先輩であるナイキ君とデートしてホテルへ直行。それがドジョウ様の本日のスケジュールでございます」
 ヴァンサカは胸ポケットからとり出したメモ帳をひらいて言った。
「ちょ、ちょっと待て」ピータン氏は思わずどもった。「ツッコミどころがいっぱいありすぎだ。ドジョウ様がお嬢池でヘレヘレするのじゃなくて、お嬢様がドジョウ池でヘレヘレするんだろ?」
「はい」ヴァンサカがうなずいた。「わたくし、そう申し上げませんでしたか?」
「ミウはドジョウ池を去ってから男とホテルへ直行するのかね?」
「はい」とヴァンサカ。「メモ帳にそう書いてあります」
「それ、本当なのか?」
「はい。本当にそう書いてあります」
「じゃなくて」ピータン氏は苛々して「ホテルへ直行するのは本当なのかときいてるんだ」
「さあ、わかりません」
 ヴァンサカは首を振った。
「じゃあ、なんでメモ帳に書いたんだ?」
「お嬢様からデートすると聞かされまして」ヴァンサカは答えた。「ナイキ先輩を憎からず想っておられるお嬢様のことですから、てっきりホテルへ行くものと思ったのでしょう」
「なんだ。お前の想像か」ピータン氏はホッとした。「それを早く言え」
「ナイキ君はなかなかの好青年ですから、わたくしはお嬢様のご伴侶にはふさわしい方かと思いますが……」
「だからなんで執事のお前がミウの彼氏のことまでよく知ってるんだ?」
「いえ、よくは知りません。血液型も星座もまだ伺っておりませんし」
「そんなこと知る必要はなかろう」
「ご主人様、なにをおっしゃいます?」ヴァンサカは真顔になって「血液型と星座を知ることはこの上なく大事でございます」
「そういうものかな」
「いまごろ奥様とお嬢様はドジョウ池でヘレヘレしておられるところでございましょう。もう間もなくヘレヘレするのも終わりでございましょう」
「そのヘレヘレってのはなんなんだ?」
「まるでわかりません」
「……」
「……」


  元気が出る章

 ミウはドジョウ池で母親のピータン夫人と落ち合ってヘレヘレしてから、母親と別れて駅前の喫茶店へ出向いた。そこでナイキ先輩と会って話した。ナイキ先輩はこないだ階段の踊場でいきなりミウを抱きしめたことをわびた。
「ごめんなさい。ミウちゃん」ナイキ先輩は謝った。「もう断りなくやったりしないから。許してほしい」
「許しますよ」ミウは言った。「許してるからわたし先輩と付き合うことにしたの」
「ありがとう」ナイキ先輩は言った。「優しいね。ミウちゃんは」
「わたし、先輩に抱きしめられて、びっくりしたけど、ほんとはちょっと嬉しかったの」
 ミウは顔を赤くして言った。
「これから、時々ミウちゃんのこと抱きしめてもいいかな?」
 ナイキ先輩がきいた。ミウは黙ってうなずいた。
 これから自分はナイキ先輩にちょいちょい抱きしめられるだろう。抱きしめられるうちにキスするようにもなるだろう。抱きしめられてキスするうちに、互いの下半身を交わらせてこすり合う、子供をつくることもするようになるだろう。そうなったら近いうちに自分はナイキ先輩のお嫁になり夫婦になるだろう。
 ミウはそう考えて幸せになった。ミウは元気が出た。モリモリ元気が出たミウは屋敷まで歩いて帰った。


  おせんべ風のおせんべの章

 ミウが帰宅すると母親が先に帰ってきていた。
「お母様、うちに戻ることにしたの?」
 ミウがきいた。
「ほかにやることもないしね」
「ミラはわが家に帰る以外やることがないのかね?」ピータン氏が妻にきいた。
「うん。そうよ」
「ミラはうちにいるのがいちばんなのであろう」ピータン氏は言った。「なんでまた実家で滋養強壮しようと思ったのかね?」
「なんとなくそんな気分だったの」ピータン夫人が答えた。「でも実家は退屈。お母さんに庭仕事させられそうになるし。あなたのそばにいるのが良いってつくづくわかったわ」
 ピータン夫人は椅子から立ち上がると、ソファに座っている夫に近づき、おもむろにピータン氏の膝の上にお尻をのせた。
「ちょっと……」娘のミウが抗議した。「お母様、わたしがいる前で堂々とお父様といちゃつかないでよ?」
「いいじゃないの。お母様とお父様は夫婦なんだから」ピータン夫人は夫の手を自分の太ももに当てさせた。「ミウももうじき男の人とこうするようになるわ」
「いかん、いかん」ピータン氏は首を振った。「断じてミウはまだ早いぞ」
「いいじゃないの、あなた」ピータン夫人は夫に言った。「わたしがあなたのお嫁になったのも十九の時よ? ミウにだって彼氏がいるんだから」
「付き合うのは百歩譲って許すが、一線を越えるのはまだまだ早い」ピータン氏は渋い顔をした。
「あ、そうだ。忘れてた」
 ピータン夫人は夫の膝から降りて立つと、カバンに近づいた。
「ミウにお土産があるんだった」
 ピータン夫人はカバンのなかから袋に入ったおせんべをとり出し、娘に「はい」と言って手渡した。
「お母様、ありがとう」ミウが言った。
「わしにはないのかね?」
 ピータン氏がきいた。
「あなたにはないのよ」ピータン夫人は再び夫の膝の上にのって「わたしで我慢してよ」
 ピータン夫人は夫の首根っこを抱きしめた。それを見てミウは再び抗議した。
「だから、娘の目の前でいちゃいちゃしないでって言ってるんです」
「いいではないか」とピータン氏。「ミウにはおせんべ風のお土産があるのだから」
「まあね」
 ミウは袋をあけておせんべ風のおせんべをバリバリ食べた。







  高貴なる資産家皮蛋氏登場の章

 ピータン氏は自宅の庭に立っていた。庭はわりと広かった。猫の額よりは断然広かった。広く、広々と広がっていた。殺風景でなにもなかった。時計台を除いては。
 しかしいまピータン氏が庭に立ってみて、奇妙なことに気づいた。時計台には時計がある。当たり前だ。庭にいて時刻がわかるようにと思ってしつらえたのだから。ところが時計の文字盤には短針はあるが長針がなかった。おや。ピータン氏は考え込んだ。おかしいな。この時計、はじめから短針だけだったかな。長針は途中で脱落したのだろうか。時計台のそばに針は落ちていなかった。記憶が定かでない。
 そこへ、ピータン家の使用人、執事頭兼執事兼家令兼雑用係のヴァンサカが通りかかった。いまは作業服を着てホウキをもっていた。庭を掃除するところ。
「おお、よいところにきた。ヴァンサカ」ピータン氏は呼び止めた。「この時計台に奇妙なところがある」
「はて。奇妙なところ……?」ヴァンサカは首をかしげた。「ご主人様、いかがなさいましたか? わたくしの目にはどこもおかしく見えませんが」
「いや」ピータン氏は手にあごをのせて「この時計、文字盤に長針がないのだ。短針しかない。いま九時すぎなのは短針でわかるが、九時何分だか一向にわからん」
「お言葉ですが、ご主人様」ヴァンサカは慇懃な調子で言った。「時間だけわかれば何分かなんて細かいことはよろしいのではございませんか?」
「いや、それでは困る」ピータン氏は顔をしかめた。「資産家たるもの、時には分刻みのスケジュールで行動しなくてはならんことがある。私はいまのところそんなスケジュールの日がないが、近い将来舞い込まないとも限らん。この時計では遅刻する恐れがある。ヴァンサカ、長針はどこへ失踪を企てたのだ?」
「失踪などしておりませぬ」ヴァンサカは答えた。「長針はもともと付いておりません」
「もともと付いていないだと?」
 ピータン氏は大きな声を出した。
「はい、ご主人様」ヴァンサカはうなずいた。「この時計台が庭にやってきた日からですね、そもそものはじめより、文字盤に長針は影も落としていなかったのです。おじいさんの生まれた朝にやってきた時からずっと……」
「それは大きなじいさんの心臓の唄であろう」ピータン氏は言った。「はじめから長針がなかった? そんな時計があるものか。欠陥品もいいところだぞ?」
「いいえ、ご主人様。長針などないほうが作業が簡便なのでして」とヴァンサカ。
 ピータン氏は首をかしげた。するとヴァンサカはホウキをその場に置いて時計台に近寄った。ヴァンサカは時計台の裏側に回った。そしてえっちらおっちらハシゴをよじ登って、時計台の時計の裏側にたどりついた。ヴァンサカはそこでなにやらいじくった。
 ピータン氏は時計の文字盤を見た。するといままで九時を指していた短針が、クルッと回って十一時を指した。ピータン氏はポカンとその変化を眺めていた。
「この時計はめんどくさい代物でして」ヴァンサカはハシゴを降りて言った。「一時間ごとにこのわたくしめがよじ登って短針をうごかしてやらねばならないのです」
「なんと。ヴァンサカ、お前がいちいち手で回しているのか?」
「そうでございます」
「ネジを巻いてうごかすゼンマイ式でさえないのか?」
「そうでございます」
 ヴァンサカは時計台の裏側に立つと、主人にくるように手ぶりで促した。ピータン氏が好奇心から時計台の後ろに近づくと、ベニヤ板を貼りつけた時計台の本体の後ろは金属の棒を組んだだけの張りぼてになっていた。その傍らにハシゴがあった。
「予算不足でございまして」ヴァンサカが言った。「このような経済時計台になりました」
「時計台というが」ピータン氏は渋い顔つき。「これでは時計の用を足していないではないか」
「ご主人様。では長針をとり付けましょうか? もちろん経費削減のために動力は人力で……」
「やめとこう」ピータン氏は答えた。
「時に、ご主人様」ヴァンサカは話題を変えた。「奥様はいつお屋敷にお戻りで?」
 使用人にそうきかれてピータン氏は腕組みした。
「もうそろそろ戻ってくるだろう」ピータン氏は答えた。「妻は滋養と強壮のために妻の実家に行っている。滋養により、近々強壮になって帰ってくるだろう」
「ご実家に戻られていらっしゃるんですか?」とヴァンサカ。
「まあな。滋養強壮の結果、相当にたくましくなって帰ってくるだろう」
 ピータン氏はそう言って口ごもった。待てよ。そんなに強くなったら夫婦喧嘩になった時、とてつもないダメージを食らうかもしれんな。ピータン氏は身震いをひとつし、コホンと咳払いした。
 ヴァンサカは再びホウキを手にし、地面を掃き始めた。主人の心知らず、ニコニコして主人に言った。
「早く奥様がお帰りになるといいですね。ご主人様」
 ピータン氏は「妻は帰ってくるのがゆっくりになるだろう」と言った。「えっ?」ヴァンサカがきき返した。「いや」とピータン氏。「あれは、実家で時間を忘れて静養すればいいのだ。急かしてはいかん」
 ホウキをもって突っ立ったヴァンサカを庭に残してピータン氏は屋敷に戻って行った。


  列車に乗るピータン夫人の章

 その婦人は列車の客車に乗っていた。列車は空いていた。シートに座る婦人は三十代後半といったところ。丸顔で、ややぽっちゃりした体型。車窓の下にある台に便箋紙をのせてペンを走らせていた。
「あなた、暑くはないですか」婦人はブツブツ呟きながら字を書いた。「日ごと暑さがつのります。なにこれ。どこかで聞いたことあるじゃない。パクリは良くないわ。それに第一、いまは暑くなんかないじゃないの……」
 婦人はペンを止めて思案した。車窓のそとの景色を眺めた。それからまたブツブツ呟き出した。口に出さないと文章を思いつかないらしい。
「いまはあなたと離れてますが、いつか家へ戻ります。いつか……また……いつ……どうしようかしら。これだとほんとに戻ることになっちゃう」婦人は考えた。「あの人に甘い顔するのは良くないわ。いつまで家にいつまで帰ってこないのかって、やきもきさせなくちゃ。いつか戻りますが、いつかはまだ決まっていません。うん、これでいいわ。決まっていないことは教えられないです。あなたとのキスもしばらくお預けです。うん、うん、いい感じ」
 婦人は自分が書いた文面に悦に入った様子で満面の笑みを浮かべた。
 車両のドアがあいて車内販売のワゴンがやってきた。販売員の女性が声を出した。
「えー、おせんべにキャラメル、プリンにゼリーはいかがですか」販売員は言った。「あとビールにワイン、ソーダにただの水はいかがですか」
 婦人が販売員を呼び止めた。
「おせんべひとつちょうだい」
「プリンかゼリーはいかがですか?」と販売員。
「じゃあおせんべにしようかな」と婦人。
「ビールはいかがですか?」と販売員。「ただの水はいかがですか?」
「じゃあおせんべにしようっと」と婦人。
「なにがじゃあ、よ」販売員は言いながらおせんべを婦人に渡した。婦人は代金を払った。
「おせんべにキャラメル、プリンにゼリーは……」
 ワゴンを押して販売員が移動を再開すると婦人がまた呼び止めた。
「ちょっと待って」
 販売員はワゴンを後退させた。
「娘にお土産を買ってあげたいの」
「お土産にプリンかゼリー、ビールかただの水はいかがですか?」
「じゃあ、おせんべにしとくわ」と婦人。
「だからそのじゃあってなんだよ」と言いながら販売員はおせんべを丁寧に婦人に渡した。婦人は代金を払った。
 販売員とワゴンが去ると婦人は再び手紙に視線を落とした。
「ミウにお土産をもって行きます。おせん……お洗濯はちゃんとやってますか。あまり家事をヴァンサカに押しつけてはいけませんよ。ミウももう十六なんですからね。早くお嫁に行く先を見つけてしまいなさい。お母様は十九でお父様と結婚したんですよ。でもお父様にはお土産はありません。残念がるように伝えてちょうだい。残念でした。またどうぞ」
 婦人はおせんべを袋からとり出すとバリバリ音を立てて食べた。


  ロンブロゾーの章

 その少女はベッドに寝ていた。寝ているが眠っていなかった。枕元に人が立つ気配がした。それは知っていた。少女は診察を受けているのだ。
「きみの名は?」
 枕元に立つ人物がきいた。目をつむっているので少女には姿が見えない。声からして中年男性のように感じる。
「ミウです」少女が答えた。
「わしはロンブロゾー教授」枕元の人物が言った。「きみも知る通り、心理学の大家だ。第一人者、スペシャリスト、オーソリティといってもよい。わしはきっときみを治すだろう」
 少女は寝ながらうなずいた。高名な医師だからこそ、診てもらっているのだ。
「きみの連想から診断をする」ロンブロゾーは言った。「学校で気になる場所はどこかな?」
 少女ミウは質問を聞いて返答に迷った。いくつかの空間や物がかわるがわる浮かんだ。やがてある場所が浮上してきた。
「階段の踊場です」
 ミウは答えた。
「何階のかね?」とロンブロゾー。
「三階。いえ」ミウは答えた。「屋上と三階の中間の踊場です」
「そこでなにをした?」
「え……」
 ミウは躊躇した。
 先輩に階段の踊場で抱きしめられたのだ。昨日のことだった。男の人にそんなことをされたのは生まれてはじめてだった。
 ナイキ先輩のことは気になっていた。知らず知らずに自分の気持ちをアピールしていたかもしれない。だが屋上へつづく階段の踊場に誘い出されて、そこで抱きしめられるとは思っていなかった。「好きだよ。ミウちゃん」先輩のそう言う声が聞こえたのは幻聴ではなかった。だがミウはナイキ先輩に抱かれて怖くなった。思わず「やめて」と言ってしまった。
「やめてくれたの?」
 ロンブロゾーがきいた。変だなとミウは思った。まだなにも事情を話していないはずだ。気のせいか、ロンブロゾー教授の声が父親の声に似ていた。気のせいだろう。
「離してくれました」ミウは答えた。「わたし、すぐに逃げてしまって……」
「ミウは本当は抱かれていたかったんだろう?」ロンブロゾーが言った。「抱かれるだけでなく、もっとやらしいことをされたかったんだろう?」
 ロンブロゾーの声がいよいよ父親そっくりに聞こえた。まさか、この人は……
 ミウは目をあけた。目を覚ました。家の寝室でベッドに寝ていた。夢だったのか。父親のピータン氏の声がしていた。
「おーい、ミウ」ピータン氏は娘の寝室のドアを叩いて「いないのかね?」
「はい、お父様。どうぞ」
 父親が入ってきた。
「ミウ。お母様から手紙が届いたよ」
「お父様ありがとう」
 ミウはぺこりとお辞儀して手紙を受けとった。父親が寝室から去ると、さっきの夢と昨日の現実で彼女を抱擁した先輩の感触を思い出して味わった。思い出してみるのはこれで数度目だった。



後編へ
続く。